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2月の一番長い3日間。誰も思いもよらなかった大戦争の始まり

ウクライナ・プラウダ 9/5/2022の記事の翻訳です。
2022年2月22日。驚くほど暖かいキーウの一日が終わろうとしている。バーベキューができる5月はまだ先だが、暦の上では冬の最後の数日間に+10℃になることはあまりない。
ウクライナ国家安全保障・防衛会議(NSDC)事務局長のオレクシイ・ダニロフは、安全保障会議ビルの3階にあるオフィスで、極秘情報日報「レッドフォルダー」を待っている。

19時10分頃、彼はそのフォルダを手に入れる。オレクシイ・ミアチェスラヴォヴィッチ(ダニロフの姓)は文書に目を通し、すぐに大統領に電話する。ヴォロディミル・ゼレンスキーは、数え切れないほどの会議に出席していた。その数は、大戦が大きくなるにつれ、日に日に増えていた。

大統領が会議を終えるのを待たずに、NSDC書記はすぐに年季の入ったアウディに乗り込み、運転手にバンコバ(キーウの大統領府がある通り、編注)へ行くように告げた。「レッド・フォルダー」の中の情報は待ってはくれない。

オフィスに到着したダニロフは、ゼレンスキーの身辺警護の責任者、国家保安部の責任者と話をし、ようやく大統領本人に「我々のパートナーからの情報では、あなたの命が非常に危険であることがほのめかされています」と伝えた。

「我々のパートナーは頻繁に、”君達、戦争になったら、あなた方のリーダーの命が非常に危険であると、君達のリーダーは殺され、君達は選別施設や強制収容所に入ることになるよ」と、言っていました。」と、ダニロフはウクライナ・プラウダとの会話で、2月22日の出来事を振り返りながら語っている。

その時、“死ぬ暇もない” モードで仕事をしていたゼレンスキーは、ダニロフの話をじっくりと聞き、礼を言って、別の会合に向かった。

ALL COLLAGES BY ANDRII KALISTRATENKO

その日は、すでに十分なストレスがあった。前日の2月21日、ロシアの独裁者ウラジーミル・プーチンはロシア安全保障理事会を開き、ドンバスの占領地における傀儡政権の「独立を認める」と宣言した(ただし、どの国境内かは不明であった)。

キーウにいるウクライナの指導者達は、ロシアが2008年にジョージアで同じような行動をとったことを覚えていた。クレムリンの当初の計画では、ロシア軍の部隊は2月22日に首都とその他のウクライナの都市への進撃を開始するはずであったのだ。

キーウでの議論中、ウクライナの守備隊はプスコフ空挺部隊からトロフィーマップを受け取った。部隊の指揮官は通常、攻撃開始の2日前にそのような文書を受け取る。

「地図には『2月20日発行予定』と書かれていた。つまり、2月22日に侵攻を開始する予定だったのだ。しかし、何かが変わったのか、2月20日の上に線が引かれていて、誰かが代わりに『2月22日』と書き直していた」とダニロフは言う。

理由不明のままだが、ロシア軍の侵攻は2日遅れで、2月24日の夜から始まった。

ウクライナ・プラウダは、侵攻前の2日間にウクライナで起きた出来事を再現し、ロシアによるウクライナ侵攻の最初の数時間の様子を伝える。

本稿では、2月22日にウクライナ国防省の情報局長であるキーロ・ブダノフがウクライナ議会の議員に対して述べたこと、大統領府での会合で企業経営者がロゼツカ (ウクライナ最大のオンライン小売業者)のオーナーについて残念なジョークを言ったこと、リナト・アフメドフ(ウクライナ一の富豪実業家)が、2月23日に大統領と会談した後どこに行ったかを紹介し、2月24日の朝、ゼレンスキーがボリス・ジョンソン(当時の英国首相)と電話した時のこと、国会議員の居場所などを明らかにしていく。 2月23日に大統領と会談したリナト・アクメトフ(ウクライナで最も裕福な実業家)の行き先、2月24日の朝、ゼレンスキーがボリス・ジョンソン(当時の英国首相)と電話で話した内容、国会議員の武器支給場所、閣僚(ウクライナ政府)がウクライナ西部へ避難した経緯などである。
この記事のために、大統領府、閣僚会議、ヴェルホヴナ・ラダ(ウクライナ国会)、法執行機関、主要企業経営者など30人以上の関係者に話を聞いた。

2月22日 プーチンへの対応、ヴェルホブナ・ラダ会議、予備役動員

2月22日、ゼレンスキー大統領は、むしろ捉えどころのないものを探していた:プーチンに素早く、力強く対応するための適切な言葉を見つけようとしていたのである。プーチンの長大な偽史的演説を放置しておくことは、ウクライナの弱さを認めることになる。これは、ロシアの独裁者が「L/DNR(自称ドネツクおよびルハンスク人民共和国)の独立を承認した」という事実以上のものだったのだ。この演説をよく見ると、プーチンがウクライナの国家としての存在意義に疑問を呈していることがわかる。

「プーチンの演説だけでなく、安保理の全会合を見る時間はありませんでした。しかし、彼が何を準備しているのかは知っていた。我々のインテリジェンスが、何が起ころうとしているのか報告して来ました。」大統領府のアンドリー・イェルマク長官はウクライナ・プラウダとの対談で、と振り返る。

大統領府は、プーチンがドンバスに関する決定を発表する準備をしていることは知っていたが、彼が8年間の交渉を帳消しにし、ミンスク合意を一挙に終わらせる勇気があるとは信じ難かったのだ。

2月22日02:40、ヴォロディミル・ゼレンスキー
のスピーチより

「偉大な国の偉大な人々、我々と我々の国家は、歴史について長い講義をする時間がありません。ですから、私は過去について話すのではなく、現在と未来について話すことにします。私の背後にはウクライナの地図があり、そこには国際的に認められた国境線が描かれています。…

ドネツク州とルハンスク州の占領地域を独立地域として承認することは、ロシアがミンスク合意から一方的に離脱し、ノルマンディーの枠組みでなされた合意に反抗することを意味する可能性がある...。

(いわゆる「DPR」と「LPR」の承認の発表により、)ロシアは本質的に、2014年にさかのぼるドンバスの占領地における自軍の存在を正当化している。

我々は、挑発行為と侵略者の軍隊による侵略を明確に区別することができます。真実は我々の側にある。そして、我々は決して真実を隠すことはありません。状況が変化し始め、脅威が増大するのを確認したら、すぐにお知らせします...」

演説のYouTubeリンク

ゼレンスキーの演説には、2月中旬の彼の演説によく見られるもう一つの文章があった。

「われわれは長い間、(何が来ても)大丈夫なように準備してきた。しかし、あなた方が眠れなくなるようなことは何もない」と、ロシアの本格的な侵攻開始の2日前に大統領は言った。

いわゆる「人民共和国」の承認が無意味なものに終わるかもしれないというゼレンスキー大統領の確信は、単なる美辞麗句ではなかった。それは、彼のチーム全員が共有する確信であった。

同じ日の14時頃、ウクライナ・プラウダの記者達は、キーウの将校の家でオレクシイ・レズニコフ国防相のインタビューを待っていた。大臣はやや遅れていた。実は、大臣は2ブロック先のヴェルホヴナ・ラダ(国会議事堂)にいて、心配する国会議員をなだめようとしているところだった。

印象的なスリーピースのスーツを着たレズニコフは、ウクライナ・プラウダとの約束の時間になると、にこやかな表情になった。彼は約1時間かけて、大きな戦争は起こらないし、ドンバスに関するクレムリンの決定は(ウクライナにとって)何らかの利益をもたらすかもしれないと、ウクライナ・プラウダを説得した。

「ついにロシアは(ドンバスでの)存在を曖昧にすることを止めた。あれはロシア連邦の直接的な侵略行為だったが、彼らはそれを隠蔽しようとした。そして今、(ベネチアで)言われているように、(ロシアは)その仮面を脱ぎ捨てたのだ」と大臣は説明した。

レズニコフは、「プーチンは “第2のエルサレム” であるキーウ市を爆撃する勇気はない 」と説明し、冷静で説得力のあるものであった。これは、ウクライナ・プラウダが2月24日午前5時に発表したレズニコフのインタビューの見出しで、ちょうどロシアの巡航ミサイルがキーウを直撃した時であった。

レズニコフのインタビュー記事リンク

言う2月22日、米国は大使館員のポーランドへの避難を開始した。ちょうどその1週間前に大使館員はキーウからリヴィウに避難していた。同じ頃、モスクワではプーチンがロシア国外にロシア軍を展開する許可を州議会に求めていた。

キーウのウクライナ政府は、こうした災いの予兆を察知しながらも、最後まで平常心を保っていた。ゼレンスキーは、いくつかの会議を招集し、更に国会議員や企業経営者との会談の準備を進めていた。また、外国人の訪問も続いていた。

このような訪問の一つひとつは、いくつかの大使館が避難し、欧米の航空会社がウクライナへのフライトを禁止することを考慮すると、非常に象徴的なものであった。大統領府としては、外国の指導者がウクライナにいる間は、プーチンがウクライナを攻撃する勇気はないだろうとさえ思っていた。そのため、ウクライナの全外交団は、外国高官が毎日キーウを訪問するよう組織的に動いていたのである。

2月22日、エストニアのカリス大統領がウクライナを訪問した。ゼレンスキー大統領との共同記者会見で、記者団から「モスクワの明らかな戦争準備に鑑み、ウクライナに戒厳令が導入される可能性はないか」との質問があった。

質問に対して、ゼレンスキー大統領は「戦争は起きないと信じている」と答えた。そして、冷静沈着な態度でこう付け加えた。「ウクライナに残虐な戦争を仕掛けることはないし、ロシア連邦が大規模なエスカレーションをすることもないでしょう。もしそうなれば、戒厳令が敷かれます。」

ゼレンスキーがこの言葉を発した数時間後、プーチンは同じように冷徹な態度で、ドネツク州とルハンスク州の境界内にある傀儡「共和国」(ウクライナ政府の支配下にある領土を含む)をロシアが承認したと発表することになったのである。

エスカレートは避けられないと思われた。


2月22日夜、第9回大会の全期間を通じて初めて、ゼレンスキー大統領は全議会派閥のリーダーを大統領府に招いた。

この形式をとったのは、過去に一度だけだった。就任式の翌日、前回大会の解散を宣言するため、各議会の指導者を集めたのである。

2月22日の夜、ゼレンスキーは議会の派閥やグループのリーダーを集め、その統一を図った。

当時、この会議の詳細は不明であった。なぜなら、議論された情報の多くが機密扱いであったし、今もそうであるからである。しかし、複数の派閥の代表者がウクライナ・プラウダに語ったところによれば、ゼレンスキーがこの会議で最も重視したのは、彼自身が「防衛連合」と呼んだものを作ることだったと言う。

その時の重要性を強調するために、会議は大統領府の4階にある、通常は国際交渉に使われる大きくて明るいホールで行われた。

大統領は、軍民両面の最高責任者を招き、報告させた。首相デニス・シュミハル、軍最高司令官ヴァレリー・ザルジニ、保安庁長官イワン・バカノフ、情報総局長キーロ・ブダノフらと並んで、ゼレンスキー大統領の席には、各派閥の首脳陣が並んだ。

各派閥のリーダーはうなずきながら、大統領に同意した。ペトロ・ポロシェンコ(第5代ウクライナ大統領、欧州連帯党首)は、「必要なところにはどこでも協力する」と意気込んでいた。ユリア・ティモシェンコ(バトキフシナ党首)は、ロシア人はウクライナ軍の数より多いので、動員が必要だと述べた。唯一発言しなかったのは、大統領府の「知恵のある者」達がポロシェンコの隣に座らせたユーリイ・ボイコ(現在は禁止されている野党「生活のためのプラットフォーム」の中心人物)である。

政治家の演説が終わると、警備担当の将校達が交代で報告する。派閥のリーダーは国家機密へのアクセス権が高いので、警備隊の報告はかなり率直なものだった。ヴァレリー・ザルジニは、ウクライナ軍の仕事について、「あらゆるシナリオを想定して準備している」と説明した。

一方、バカノフ、レズニコフの両者は、本格的な戦争の可能性を否定した。ただ、ロシアによる心理的な特殊作戦やドンバス情勢の悪化はあり得ると考えていたようだ。

最後に発言したのは、(ウクライナ軍)情報総局のキリーロ・ブダノフ局長だった。しかし、出席者によると、ゼレンスキーらはブダノフの話をあまり聞いていないようだった。

しかし、1日半で明らかになったように、彼のスピーチこそが最も重要で正確なものだった。

ブダノフは書類から地図を取り出し、冷静で自己陶酔したような表情で、ロシアがドンバス以外で戦争を始めるかもしれない、ヘルソンやハルキウが脅威にさらされている、キーウにも脅威がある、ロシアはチェルノーブルから侵入しようとするかもしれない、と出席者の血の気が引くようなことを言い始めたのである。

「ブダノフはひどいことを言っていた。しかし、他の高官連中が彼の言うことをほとんど苛立ちに近い形で受け止めていたため、その他の高官達も彼の言うことをまともに受け止めなかった。まるで、ブダノフが自分の弟か何かのような態度だった。」ブダノフの演説が終わった後の雰囲気を、出席者の一人がそう振り返った。

2月22日、ヴォロディミル・ゼレンスキー
のビデオ演説より

「愛国者とは、自分の土地のために敵と戦う人のことです。そして、その土地にお金を投資し、雇用を創出する人です。そこで、我々は経済的な愛国心に関するプログラムを立ち上げています。これは、生産の現地化のための追加的なインセンティブです......」

今日、全ての政治家、全ての政党が同じ色、つまり青と黄に染まっている...

私は、予備役の特別召集に関する法令に署名しました。これは、作戦予備隊に登録された国民にのみ適用されることを強調します。ウクライナ軍の戦況変化に対応できるよう準備する必要があります…

明日は大企業のトップ50と会談します…

今日、黙っていれば、明日には消えてしまいます。日々のハードワークが我々を待っています。そして、我々にはその準備ができている...」。

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2月23日 非常事態宣言とオリガルヒとの面会

ほとんどのウクライナ人にとって、2月23日の朝は、ロシアによるウクライナに対するハイブリッド戦争の過去8年間におけるこれまでの朝と目立った違いはなかった。

キーウのトップがロシアとの対決の新たな一日に備えていたところ、ワシントンのホワイトハウスの執務室に、意外なウクライナからのゲストが歩いて来ていたのである。

米国大統領は通常、大使や外務大臣を執務室に迎えることはない。しかし、その日はウクライナのドミトリー・クレバ外務大臣とオクサナ・マルカロワ大使がジョー・バイデンのゲストとして登場したのだ。それに先立ち、ウクライナの大臣は既にアメリカのアントニー・ブリンケンと会談していた。

ウクライナを取り巻く情勢が緊迫していたこともあり、ホワイトハウスはバイデンの個人事務所にクレバを迎え、会談の写真報告書まで作成して、ウクライナへの支援をより強調することにしたのである。

PHOTO: WHITE HOUSE TWITTER

ただ、ホワイトハウスで撮影された写真からは、この会談の不安な雰囲気、悲壮感すら感じ取ることができない。

公式写真を撮った後、バイデンはクレバに状況を尋ね、アドバイスをし、支援を確約した。しかし、その口調は、決戦前夜の味方を励ますというより、ガンに侵された子供に別れを告げるようなものだった。

バイデンはその日、クレバに別れを告げた時、ウクライナ全体にも別れを告げていたのである。


一方、キーウでは、クレバの権力者達がNSDC(ウクライナ国家安全保障・防衛会議)の新会議に集結していた。

2月21日のプーチンの決定を受け、NSDCは24時間365日稼働体制に移行していた。2月23日午前、ロシアがドンバスに衛星を配備し起動させたことが脅威となり、戒厳令を発動するかどうかという難しいジレンマを解決するために、全メンバーが集まることになったのだ。

会議では、かなり活発な議論が交わされた。ザルジニ総司令官とレズニコフ国防相は、「全土に非常事態を発令するだけでは十分とは言えない」と弁明した。彼らは、東部の2、3の州だけではあるが、戒厳令を直ちに導入することを提案した。

しかし、会議の出席者の大半は、そんなことをすれば、ウクライナはロシアに強力な主張を手渡すことになる、と恐れていた。数週間前からロシアのプロパガンダは、ウクライナがドンバスで大規模な攻勢を準備しているという嘘を、あらゆるメディアで放送していた。

ウクライナの支配するドンバスに戒厳令を導入すれば、ロシアの縛りを解き、正式な侵攻の口実を与え、「戦争を始めたのも戒厳令を導入したのもウクライナだ」と世界に正当化することができたかもしれないのだ。

結局、モスクワを刺激しないことにしたのである。そこで2月23日朝、NSDC長官がヴェルホヴナ議会に提出した大統領令は、国全体の非常事態に言及するのみで、ドンバスでの戒厳令実施については何も触れていない。

しかし、2月22日にウクライナ議会で誕生した防衛連合は、1日も経たないうちに崩壊した。前日まであらゆる支援を約束していた野党会派のほとんどが、国家当局と論争を始めたのだ。

「ペトロ・ポロシェンコ、ユリア・ティモシェンコ、やホロス(声)党は、政党とメディアの制限に関する条項を政令から削除するよう要求した。しかし、アンドレイ・スミルノフ(大統領府副長官)は、法令を法律の規定通りに実施すべきだと主張した」と議会指導部の関係者が回想している。

そして、ルスラン・ステファンチュク議会議長の事務所が、解決策を探す場所となった。派閥のリーダー達は、大統領令を修正し、文章を書き換えたり、表現を明確にしたりしようとした。

時間が経ち、午前中の会議が終わり、休会時間が過ぎ、夜の会議になっても、国防連合からの成果は得られなかった。

ある時、NSDCのオレクシイ・ダニロフ書記が我慢の限界に達し、代議員達にこう言った。「我々はあなた達とここでコンマの一つ一つまで議論することができるが、明日には戒厳令下の投票になるかもしれないということが少しは分かっているのか?何とかしようじゃないか。」

この一言で、一瞬、議論がストップした。その結果、国会は夜10時前に非常事態を何とか議決した。

米国が新たに提供した情報によって、事態はかなり深刻なものとなっていた。ロシアがついに準備を完了し、間もなく攻撃して来るというのだ。


結局、代議士の振る舞いは国家指導者の直接的な帰結となった。

その日、ポーランドのアンドレイ・ドゥダ大統領とリトアニアのギタナス・ナウセダがキーウを訪問していた。

記者団からプーチンが攻撃すると思うか、と問われたゼレンスキーは、プーチンの計画は「天気予報ではない」ので、予測しようとしても無駄だ、と皮肉交じりに答えた。

「しかし、我が軍がどのように行動するかは、予測せずともはっきりと分かる。申し訳ないが、ウクライナ軍と私だけが、我が国の防衛力と防衛に関する措置を知ることができる。そして、私を信じて下さい、我々は何に対しても準備ができている」とゼレンスキーは付け加えた。

その後数日から数カ月で明らかになったように、ゼレンスキーには、国防部門全体がさまざまな可能性を想定した徹底的な準備を行っていることに言及する正当な理由があった。

大統領とその文民チームが5月のバーベキュー(ソ連崩壊後の国の伝統)を約束して社会を安心させている間、政府の軍事部門はロシアの侵攻に備えていたのである。

現在では、ウクライナ軍が厳重な秘密保持のもとに、弾薬庫を分散させ、予備の飛行場を戦闘航空用に準備し、ヘリコプターを飛行場に運び、防空部隊を再配置し、領土防衛軍の構造を準備し、演習を口実に軍事編成を西から中央、東に移していたことなどがわかっている

最高司令官ゼレンスキーがこのような大規模な準備に気づかないはずがないのは明らかだ。侵略者、そしてウクライナの同盟国とは違って。

米軍当局者は、ロシアの計画と戦略について、ウクライナのそれよりもずっと多くのことを知っていたことを認めている。そして、このことが、ウクライナの自衛能力に関する西側の予測が非常に不正確であることが判明した理由の一部となっている。

「とは言え、戦争に完全に備えることはできない。誰が英雄になり、誰が裏切って防衛計画を敵に渡すか、正念場で人々がどう行動するかは分からない」とダニロフは苦々しく締めくくった。


その日の17時頃、大統領府周辺のバンコバ通り、ルテランスカ通りを精鋭の車列が走り抜けて行った。ウクライナの大企業50社のオーナーは、大統領府での会議に急いでいた。

国の富裕層は、ある者はボディーガードを連れ、ある者は一人で大統領府の領域に徒歩で入り、建物の通用口へ向かった。

PHOTO: UKRAINSKA PRAVDA

大統領府のホールに、これほど大勢のウクライナのオリガルヒやトップマネジメントが一度に集まったのは、おそらくウクライナ独立の歴史上初めてのことだった。入口で国家警備隊員が一人一人苗字を聞き、印刷された名簿から一人一人ゲストを探し、まるでオリガルヒと言うより遠足の小学生の集団のようだった。

金属探知機検査の列に並んでいたのは、ゲンナジー・ボゴリューボフ、ボリス・カウフマン、ハリナ・ヘレハ、アンドレイ・スタヴニツェル、ヘナディ・コルバン、トマーシュ・フィアラ、セルヒイ・タルタ、ボリス・コレスニコフ、ヴァシル・フメルニツキー、ステパン・イヴァヒフ、マクシム・ティムチェンコ、オレホロコフスキなどのウクライナ名士達だったが、他にも多くの人がいた。

PHOTO: UKRAINSKA PRAVDA

リナト・アフメトフとビクトル・ピンチュクは、この大統領との会談のために海外から飛行機でやって来た。他の招待客とは違い、アクメトフとピンチュクは大統領府の「白い」入口から入らなかった。彼らの車列は中庭から入ることが許された。

金属探知機のチェックを受けた後、大統領府の職員が丁寧に出迎え、2階の国家イベントホールに集団で案内された。普段、NSDCの会議は、そこにある巨大な円卓を囲んで行われる。

室内に入るには、もう一つの手順:携帯電話や腕時計を国家安全保障局に預けなければならなかった。

各ゲストには、それぞれ決まった席があり、経営者は社長の左側にある円卓に、トップマネジメントは会場の壁際にあるサイドチェアーに座った。

社長が来るまでの間、来賓たちは短いフレーズやジョークを交えて挨拶をしていた。

その一角で、ビジネスマン達が「戦争が起こるかどうか」という予測を交わしている。その中に、ネット通販会社ロゼツカのオーナー、ウラジスラフ・チェホトキンの姿があった。

「ウラッド、何でロシア軍はキーウに侵入しないか知ってるか?ロゼツカの倉庫に閉じ込められちゃうからだよ!」と、参加者の一人が冗談を言うと、チェホトキンも含めて全員が大笑いした。

まさか数日後に、ロシアの戦車隊がロゼツカの巨大な物流拠点があるブロヴァリーに進攻して来るとは、出席者の誰も想像していなかっただろう。

18時頃、ホールに静かなざわめきが始まった。大統領がやって来るのだ。アンドレイ・ヤーマク大統領府長官、デニス・シュミハル首相、セルヒイ・シェフィール大統領第一補佐官、ヴァレリー・ザルジニウクライナ軍最高司令官、キリロ・ブダーノフ情報総局長。イワン・バカノフ元保安庁長官、オレクシィ・レズニコフ国防大臣、デニス・モナスティルスキー内務大臣、セルヒイ・デイネコ国家国境警備隊長がゼレンスキー大統領と一緒に会場に入った。

「大統領は不安そうな顔で入ってきたが、冷静だった。顔色が黄色くて、不健康そうだった。」と、ある営業担当者が印象を語っている。

写真: 大統領府プレスサービス

ゼレンスキーは記者団に短く話しかけ、退席を促した - また何かで寄付を頼まれるのではと、心配するビジネスマンもいた。

「先に言っておくが、あなた方をここへ招いたのは、金をせびるためではありません。」と大統領はこう切り出した。「今、この国を助けて頂くことがとても大切です。経済を支え、あなた方のチームを応援して欲しい。我々としては、外交的な手段で紛争を解決するために最大限の努力をして行きます。」

ゼレンスキーは、「可能な限り全ての手段を使っています。」と付け加えた。会議の出席者によると、彼はヴァディム・ノヴィンスキーとリナト・アフメトフが隣り合って座っているテーブルの側を熱心に見ていたと言う。

彼らは、何か新しい重要な話が聞けるのではないかと、熱心に大統領の話に耳を傾けていた。しかし、ゼレンスキーはその後、ウクライナの治安部隊の代表者にバトンタッチした。

レズニコフ国防相が最初に発言したが、出席者によると「自己啓発コーチのやる気を起こさせるスピーチ」のようなものだったと言う。

続いて、ザルジニー司令官が登場した。自信たっぷりに、しかもかなり強気で、軍隊の準備状況を報告し、「軍隊はどんな展開にも対応できる」と強調した。会議終了後、出席者の中には、「ザルジニーの自信に満ちた態度が一番安心した」と言う声が聞かれた。

治安部隊の代表者に続いて、リナト・アフメトフが発言した。他の実業家達が元気なのとは違い、ウクライナ一の大富豪は緊張した面持ちだった。
「あんなリナトは見たことがない。顔が真っ赤で、『一番大事なのは国民を救うことだ』と何度も繰り返していた」と大企業の代表はウクライナ・プラウダ紙に語っている。

アクメトフの後、ヴィクトル・ピンチュクが平和の重要性を訴え、その後ヴァディム・ノヴィンスキーが登壇し、大統領に向けて「我々は平和的解決のために全力を尽くしている」と発言した。

円卓のビジネスマン全員が、繰り返し平和の重要性について発言した。

出席者はだんだん飽きて来て、参加者の中には、ひそひそ話を始める人もいた。その中で、ゼレンスキーの真向かいに座るスルキス兄弟、イホルとフリホリが目立っていた。

スルキス兄弟は、近くに座っていた幾人かに静かに語りかけた。「朝4時、全てが始まるぞ」明らかにロシアの攻撃に関することだったが、この言葉はマイクに乗って繰り返されなかった。

続いて、テーブルの外に座っていた人達が発言する番が来た。モノバンクの共同設立者であるオレグ・ホロホフスキーが、「軍人への経済的支援を早急に強化すべきだ」と提案した。

「国家を守るためには、国民のモチベーションが高くなければならない。給料をUAH 100,000(38万円)くらいに設定して、自分が何のためにリスクを負っているのかを理解してもらうのがいい」とホロホフスキーは発言したと言う。

誰もがこのアイデアを支持し、ゼレンスキーは特に気に入った。

19時近くになって、大統領が閉会を促し、「このまま努力を続けなければならない」と言った。

終盤、ゼレンスキーが左を向くと、隣に座っているのがデニス・シュミハル首相であることを思い出した。

「デニス・アナトーリョビッチは、まだ何も言っていない。大統領は、シュミハル(首相)に「何か言い残すことはないか?」と尋ねた。

首相は、「ここに書いてあることは、全て賛成だ」と大統領に答えた。

19時過ぎに、オリガルヒとトップ・マネジャーたちは大統領府を出て行き始めた。

何人かは、バンコバ通りの中庭で待っているジャーナリストを迂回するために、気付かれないように、できるだけ早く車に飛び乗ろうとした。

それとは対照的に、カメラに向かって記者と話をする者もいた。彼らは、「ゼレンスキーが大丈夫だと言ってくれた 」と、大統領府がエスカレートしないようにしていることを報告した。しかし、誰一人として心配する様子はない。それどころか、大統領との会談を終えて、安心したようだ。

「あの時、本格的な戦争になるとは誰も言っていなかった。もし、そう言っていたら、あんなにリラックスしてオフィスを出られただろうか。オフィスの隣でくだらない話をして時間を無駄にすることもなかった。代わりに家族を安全な場所に連れて行っただろう」と、ある有名なトップマネジメントは、ウクライナ・プラウダとの会話で2月23日の夜を思い出しながら、感慨深げに語っている。

情報部長のキーロ・ブダノフへのインタビューを収録した後、ウクライナ・プラウダは、ビジネスマンとの会合でプーチンの計画に関する情報を開示しなかった理由を尋ねた。

「国会議員とは違い、国家機密にはアクセスできないので、全てを話すことはできなかった。しかし、かなり直接的に話したので、脅威の度合いを理解するのは難しくなかった」とブダノフは断言した。

しかし、ブダノフの警告を信じようとはせず、大統領をはじめとする治安部隊の代表が発する「安心感」の方が大きかった。それは、この国で最も情報通の人達にも当てはまる。

例えば、リナト・アフメトフの友人筋によれば、大統領府での会談後、オリガルヒは空港ではなく銭湯に行き、そこで夜遅くまで鬱憤を晴らし、友人達に「朝には戦争は起こらないだろう」と説得したと言われている。

しかし、ウクライナ・プラウダ の取材に対し、ウクライナ一の大富豪はこれを否定した。「夕食はあったが、風呂屋はなかった。夕方、銭湯に行くことはない。それに、侵略がないなんて、誰も説得していないよ。」


21時近くになると、大統領はスピーチライターのユーリイ・コスティウク、大統領府の責任者アンドレイ・ヤーマク、ヤーマクの報道官ダリア・ザリヴナに事務所に来るようにと言った。

ゼレンスキーは、国民に向けた新しい夜の演説を検討したいと言う。今回は、ウクライナ人への報告という形にはしないとのことだった。ゼレンスキーはロシア人に語りかけたかったのだ。

大統領はコスティウクとザリヴナに演説の概要を口述し、構成や芸術的な言い回しに配慮しながら、演説原稿を書き上げた。スピーチライター達は、しばらく文章を推敲し、大統領のビデオチームがビデオを録画したのは、23時近くになっていた。

ザリヴナはウクライナ・プラウダとの対談で、「あの夜、大統領はまるで夜の車を運転する人のように、最大限の集中力を発揮していました」と振り返る。

そして、もし戦争が回避される可能性が少しでもあるとすれば、それは2月23日にゼレンスキーが行った訴えであったと認めざるを得ない。

2月23日23:55の大統領演説より【ロシア語】
「私はウクライナの国民として、ロシア国民に語りかけます。

我々は2,000kmを超える国境を共有しています。あなた方の兵士は、その国境沿いにいます。20万人近い兵士と数千台の軍用車両が駐留しています。

あなたの指導者は彼らの次のステップを承認しました。他国の領土に踏み込むことだです。そしてその一歩は、ヨーロッパ大陸での大きな戦争の始まりとなり得るのです。」

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2月24日 侵略

2月24日5時頃、キーウはミサイル攻撃で目を覚ました。

大統領夫人のオレナ・ゼレンスカも、ある爆発で目を覚ました。ゼレンスキーは、もうベッドにはいない。戸惑いながらも寝室を出ると、隣の部屋に夫がいた。スーツに白いシャツ、ネクタイもない。

「何があったの?」と彼女が心配そうに聞くと、「始まったんだよ。」と、彼は感情を表に出さずに答えた。

一方、NSDCのオレクシイ・ダニロフ書記は、既に妻と息子をウクライナ西部に疎開させていた。彼は安全保障理事会のメンバーの私用携帯に電話をかけ始めた。

ウクライナ議会のルスラン・ステファンチュク議長は、彼に最初に起こされた一人である。ダニロフは彼に、大統領府に来て一刻も早く評議会を開催するよう求めた。「戒厳令を敷くべきだ、急げ」

国会議員やその他の役人も、各地で目を覚ましていた。その中で国家機密にアクセスできる者は、数日前に渡された「戦争になったら開封する」という秘密の封筒を手に取った。

「空っぽ だったんだ!中身は基本的なものしか入っていなかった。私が本当にすべきことは一言も書いてなかった!」スルハ・ナロドゥ(国民の僕)党の有力議員は、ウクライナ・プラウダのインタビューの中で、感動的にこう振り返った。

ハリウッド映画で、ここぞという時に天気が悪くなるのと同じように、侵攻初日は暖かな日差しから一転して、冷たい霧雨が降り続いた。何千台もの車が渋滞に巻き込まれ、首都の出口を四方八方から塞いでいる上空に、あっという間に霧雨が降り注いだ。

5時過ぎに大統領が執務室の4階にあるエレベーターから出てきた。大統領府にはゼレンスキーが一番乗りした。国家安全保障・防衛会議のメンバーが続々とバンコバ通りに到着した。
「全てが飛躍的に進んだ。全員が到着し、簡単な報告があり、それから文書に大統領の署名があり、国会に持ち込まれた」と国防相オレクシー・レズニコフは回想している。

「全てが準備され、印刷されていました。シナリオに応じた様々なパッケージの文書があって、大統領に署名された時点で、そのパッケージの登録を開始しました。我々は全てを準備していましたが、家族でさえも誰にも話すことができませんでした。」とダニロフは付け加えた。

ヴァディム・ノヴィンスキー議員は、キーウ郊外の自宅で爆発音を聞いて目を覚ました。彼はキーウ(正教会)の府主教管区であるオヌフリイ、そしてモスクワの総主教キリルへ電話をかけた。

「法王、戦争が始まりました!」心配した国会議員がロシア語で言った。
「そんなはずはない」キリル総主教は信じなかった。
「そうでなければ、どうして私の家の窓は爆発でガタガタになるんだ?」ノビンスキーはそう主張した。総主教は真相究明を約束したが、それは既に明らかだった。

政府地区では、軍とボランティアが最初のバリケードを作り始めていた。キーウ郊外では、ATM、ガソリンスタンド、食料品店、薬局などに、おびえた人々が長い列をつくっていた。

6時40分頃、当時の内務大臣デニス・モナスティルスキー、NSDC書記オレクシー・ダニロフ、スピーチライターのユーリ・コスティウクはまだゼレンスキー事務所にいた。

大統領は部屋の真ん中に立っていた。彼はiPhoneを取り出して、必要な番号を見つけ、スピーカーにした。

電話の向こうには、イギリスのボリス・ジョンソン首相がいた。ロンドンの時刻は4時40分だが、ジョンソン首相は元気いっぱいで、ゼレンスキーに「英国はウクライナの全面的な支援を保証する」と熱っぽく語った。

「我々は戦うぞ、ボリス、決してあきらめないぞ」と、ゼレンスキーは英語できちんと表現しようと、スピーカーに向かって叫んでいた。

「ジョンソンとゼレンスキーが親密な関係を築いたのは、ジョンソンが初めてキーウを訪れた後のことだ。だから、よほど秘密がない限り、プライベートな番号で電話し合えばいいのだ。ロシアが自国を攻撃している時に、21世紀型の外交をしている暇はない」と、駐英ウクライナ特命全権大使のヴァディム・プリスタイコは、2人の関係の本質を説明する。

その直後から、大統領の通信は特別保護モードに切り替わった。ゼレンスキーがこのチャンネルを通じて最初に電話をかけたのは、ジョー・バイデン米大統領だった。

「全てが同時多発的に起こっていた。ここでは内部会議があり、そこでは国際電話がかかってくる。隣の部屋に移動すると、国際会議があり、治安部隊との電話会議がある。ある時、大統領が私達を見て、『他に何ができる?何か考えはあるか?』と。そして、また慌ただしくなった。」大統領府のアンドレイ・シビハ副長官は、2月24日の朝をそう振り返る。


その日の朝、国会議員達はドニプロ川の両岸、市内のさまざまな場所からヴェルホヴナ・ラーダ(国会議事堂)に向かおうとしていた。

前日、ヴェルホヴナ議会は、軍事行動が始まった場合、議会の各委員会の事務所に行くように各会派のリーダー達に指示していた。

「誰もが、まず携帯電話の接続が切れることを心配していた。国会議員の事務所には、安全な回線が確保された電話機、いわゆる「ソトカ(百)」がある。だから、電話のそばで次の指示を待つように言われた」と、ある国会議員は説明した。

ミサイル攻撃の脅威が常にあるため、ヴェルホヴナ議会の管理者は撤退の可能性を検討した。
そのために選ばれたのが、第二次世界大戦中のウクライナの歴史に関する国立博物館であった。祖国記念碑の下に、400人以上の国会議員を収容できる大きな部屋があるのだ。

7時近くになると、国会議員達はWhatsApp(グループチャットが出来るSNSアプリ)で避難場所を知らされた。

「同僚と私は祖国の記念碑に到着しました。そこには既に高級車があり、その横にはスーツケースを持った”国民の僕“ 党の国会議員達が立っていました。私達は彼らに『何のためのカバンですか?』と尋ねました。すると『避難があると言われたから』と答えたんです。その日、私が笑ったのはその時だけだったかもしれない。誰も避難しないのは明らかでしたから。」と、インタビューに答えてくれたホロス派の議員は笑いながら振り返る。

国会議員達が博物館に向かう間に、国会管理局が再び計画を変更した。30分もしないうちに、各派閥のトップが議員達にグループチャットで、ヴェルホヴナ議会でのセッションに戻るよう伝えてきたのだ。

第一に、国会職員には、退席時に適切な投票システムを組織する時間がなかった。第二に、もし議場以外の部屋で行われている映像があれば、「ウクライナ議会が首都から逃亡した」といった見出しを掲げるロシアのプロパガンダの格好の材料になっただろう。

8時頃、国会議員達がヴェルホヴナ・ラダに集まり始めた。エレガントなドレスや高価なスーツの代わりにトラックスーツを着て、目を血走らせて化粧もせず、プラダやグッチ、シャネルのハンドバッグの代わりに、予測不可能な事態に備えて非常用のスーツケースを運んで来ていた。

しばらくして、ヴェルホヴナ議会のルスラン・ステファンチュク議長がやって来た。大統領府から直行した彼は、戒厳令と総動員に関する大統領令だけが審議にかけられると告げた。

しばらく間をおいて、ステファンチュクは、会期を延長し、速やかに準備を整え、遅滞なく採決できるようにする、と付け加えた。

国会議員達は、議長の発言には目もくれず、心配なニュースの議論を続けた。

ヴェルホヴナ議会が丸一日かけて検討した非常事態とは対照的に、戒厳令はほんの数分で採決されてしまった。国会議事堂のドームの下で議員達が過ごした時間は、合計で25分にも満たなかった。

採決後、派閥のリーダー達はステファンチュクに、この出来事で大統領と直ちに会談する必要がある、と持ちかけた。

大統領派 ”国民の僕“ のダビド・アラハミア党首は「無理だ」と即答したが、彼らの懇願に屈して大統領にメールすると、「派閥のリーダー全員とオフィスで会おう」と返事が来たと言う。

不思議なことに、インタビューに答えてくれた人の中に、ヴェルホヴナ議会や閣議に、戦争が始まった場合にどうするかという議定書があったかどうかを思い出した人はいなかった。仮にあったとしても、侵攻当日はとにかく大統領府で閣僚や国会議員の更なる作業工程が組まれた。

9時頃、国会議員の代表者達はバンコバ通りへ向かった。代表団は、2日前と同じメンバーで構成されていた。前ベルホブナ議会議長のドミトロ・ラズムコフが加わり、ホロス派のユリア・クリメンコがセルヒイ・ラフマニンに代わった。

「こんな(セキュリティー)チェックは受けたことがない。下着までチェックされた!」そう語るのは、大統領府に乗り込んだ代表団のメンバーだ。

ヴェルホヴナ議会の代表が大統領府に招かれ、巨大スクリーンのある状況説明室に入ると、国家警備隊のメンバーが土嚢を運び込み、窓を塞ぎ、射撃ポイントを設置していた。

大統領府の1階にあるプレスセンターには、退屈そうな記者と、ハリウッド俳優のショーン・ペンがいたが、誰も気付いていないようだった。奇しくもこの俳優は、ウクライナのドキュメンタリーを撮影するためにキーウに滞在しており、本格的な戦争が勃発するとは想像すらしていなかったのだ。

ミハイロ・ポドリアクとオレクシイ・アレストビッチは、時折、記者達の前に降りてきた。後者は携帯電話に向かって大声で話した。「ハニー、チェルニウツィー州に着いたかい?」

その頃、オレクシイ・ダニロフは大統領府の状況説明室で、州行政機関や治安部隊の責任者達と最初の電話会談を行っていた。彼は大きなテーブルで静かに座っている国会議員をあまり気にしていなかった。

「おい、ヘルソンはどうした?誰かヘルソンと連絡を取ってくれないか?クソッ! ヘルソンから誰か来ないのか?」ダニロフは、スクリーンに映し出された「ヘルソン州政府」と書かれた空白になっている枠に向かって苛立ちながら叫んだ。

議員達の注意をそらすために、(国民の僕の)アラハミア党首はプライベートチャットからニュースを読み上げ、露骨な言葉を使ってコメントし始めた。

30分後、ヴォロディミル・ゼレンスキーがアンドリー・イェルマク、デニス・シュミハルと共に入室してきた。大統領は、みんなと握手をして挨拶した。疲れているというより、怒っているように見えた。イェルマクとシュミハルは困ったような顔をしていた。二人とも一言もしゃべらない。

「皆さん、これからは協力に集中しましょう。我々の仕事は、権力の正統性を保つことだ」とゼレンスキーは言い始めた。

そして、ヴェルホヴナ議会を守るために、ウクライナの西部に移転することを提案した。

この提案に対して、ドミトロ・ラズムコフ(元国家安全保障・防衛会議議員)とペトロ・ポロシェンコ(元ウクライナ大統領)の2人の議員が異論を唱えた。

「ロシアはウクライナ政府が逃げ出したというシナリオを流し始めるだろう。そうなっては困る」と彼らは主張した。

ステファンチュクはキーウに残り、オレクサンデル・コルニエンコ下院第一副議長は近隣の州へ行くという妥協案が出された。第2副議長のオレナ・コンドラティウクはウクライナ西部に行く。上級の指導者が殺されれば、下級の指導者がその代わりをしなければならない。

その後、その場にいた全員が、大統領に必要なことを言う機会があった。

ある時、ペトロ・ポロシェンコがゼレンスキーに向かい、「勝つために協力することに集中しよう。最高司令官事務所をつくってはどうだろう。私はその一員となり、君を支援する用意がありる。」と言った。

ポロシェンコの提案にはいつもながら、国会議員は、彼が本気なのか、それとも自分が責任者になる方法を見つけようとしているだけなのか、よく分からなかった。ゼレンスキーは彼の言葉にほとんど注意を払わず、ただ次の演説者に移っていった。その後、彼は最高司令官事務所を立ち上げたが、ポロシェンコをそこに招き入れることはしなかった。

そして、会議が30分ほど経過したところで、大統領警護のチーフが最高指揮司令室に乱入しそうになった。大統領府から数ブロック離れたキーウ市ペチェルスク地区で、ロシアの破壊工作・諜報グループが既に活動しているとの情報が、シークレットサービスからもたらされたのである。しかも、大統領府へのミサイル攻撃という重大な脅威があると警備隊長は言った。

突然、ウクライナ国家保安局の武装したメンバーが部屋に入ってきて、大統領を会議から「安全な場所」まで引きずり出しそうになった。
こうしてゼレンスキーは初めて地下壕に入ることになった。彼は今後数週間、そこから国を治めることになる。

国会議員達はもちろん、その前に大統領府に招かれていた記者達も、すぐに建物から出て、一刻も早く官邸の境界線の外に移動するようにと言われた。

その直後、国会議員達は派閥のリーダー達からメッセージを受け取った。「ヴォロディミルスカ通りの国家警察本部で武器が配給される」

その日、キーウを離れていない国会議員達は、パスポートと議員委任状を確認した後、警察から散弾銃とピストルを受け取った。警察はすぐにピストルが足りなくなったので、女性議員にだけ渡すことにした。

武器配布の列の中で、誰かが担当の警察官に「なぜ、女性議員にピストルを配るのか?」と尋ねた。

疲れた男はため息をつきながら、「時が来れば、わかるようになりますよ」と静かに話した。

「それは、私達が自分達を撃つことになるという暗示ですか?」と、女性達は冗談を言おうとした。


11時頃、デニス・シュミハル首相は政府関係者と電話会議を行った。

シュミハル首相の頭の中には、国家運営を維持するために、閣僚を2つに分けるという解決策が既にあった。

まず、キーウに残る内務大臣、保健大臣、インフラ大臣、エネルギー大臣、国防大臣をリストアップし、そのリストを読み上げた。

一方、大多数の閣僚は、特別列車で比較的安全なウクライナ西部の州へ移動することになった。
シュミハル首相は、ビデオ通話中にカメラに向かって、「あなた方は中核チームであり、意思決定のための定足数を満たしている」と述べた。

副首相でウクライナ暫定占領地再統合担当大臣のイリーナ・ベレシュチュクが、突然シュミハルの言葉を遮った。

「私はどこにも行きません。そこでどうするんですか?」と、目に見えて感情をあらわにした。

シュミハルは、「これは大統領が決めたことです。」と言い聞かせた。

ベレシュチュク副首相は、「それなら私が大統領に話してみます」と反論した。結局、彼女はキーウに残った。

シュミハル首相とゼレンスキー大統領は、ウクライナの地域社会・領土開発大臣であるオレクシイ・チェルヌィショフを政府避難の責任者に据えた。

電話会談の直後、キーウを離れる大臣達はWhatsAppのグループチャットを作成し、その名前を「2月24日」とだけ名付けた。彼らはそのチャットで亡命中の仕事について話し合った。

オレクシイ・チェルニーショフとオレクサンドル・クブラコフは、避難するはずだった政府高官全員とその家族、関連書類を避難させるために、2つの別々の列車を使うことにした。

最初の列車は14:00にキーウの中央駅を出発し、2番目の列車は16:00に出発するように設定された。


政府の避難列車の発車は遅れ続けていた。騒々しい政府関係者や各省の職員は、既に寒いホームから暖かい客車に移っていたが、列車は止まったままだった。

チェルニーショフが、何度も何度もクブラコフに電話した。「どうなっているんだ、サーシャ。サーシャ、どうしたんだ、いつ発車するんだ?」

「ここはカオス状態だ! 頑張ってるんだ!最善を尽くすよ。」クブラコフは、敵が二方向から迫って来るウクライナの首都から、何とか政府を避難させようと、次々と関係者に電話をかけた。

列車はどこへ行くのだろう?チェルニーショフは、いくつかの州政府に、内閣が彼らの州に避難することを知らせていた。 政府が実際にどこに向かっているのか誰も知らなかったが、政府は全て準備していた。

乗客のほとんどが行き先を知らなかっただけでなく、列車の運転手も知らなかった。彼らには、列車を走らせるべき次の駅の名前だけが与えられていた。一駅ずつ、短い距離の間にだ。

チェルニーショフは、この列車を追いかけることができないように、更に何度か曲がるルートを導入した。やがて、2番目の列車が1番目の列車に追いついた。そして、イワノフランクフスクを目指して出発した。

おそらく2月24日の朝、西へ向かう過密な列車ほど、ウクライナ政府を表すメタファーはないかもしれない。自分がどこに向かっているのか、どこに行くのかわからない運転手と、 銃を持った一人の警備員に守られた列車だ。

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