「片耳を切り落とせ」ウクライナでの残虐行為を語るロシア兵の新たな調査結果
Radio Free Europe 9/7/22の記事の翻訳です。
写真の説明:ロシア人兵士スタニスラフ・シュマトフがウクライナのハリキウ地方で行った残虐行為の記録は、ウクライナの保安局が彼の家族との携帯電話の通話を傍受し、録音したものである。
切断された耳。「見るもの全て破壊せよ」という命令。ロシアの戦車や装甲兵員輸送車によって略奪され、粉々にされた家屋。
21歳のロシア人兵士スタニスラフ・シュマトフは、この春、ウクライナ北東部のハリキウ地方からロシアにいる家族に連絡した際、ウクライナ治安局(SBU)が自分の会話を録音しているとは思いもしなかったと言う。
2月24日の侵攻から数カ月、ウクライナに滞在していた他のロシア軍兵士と同様、彼は自由に会話していた。
4月15日、51歳の父親アレクサンドル・シュマトフと親戚と見られる女性イリーナ・ジェレズニコワとの携帯電話の通話を傍受したところ、シュマトフ(録音ではロシア第15機動小銃旅団の装甲車ドライバーと名乗っている)はウクライナ兵囚人(捕虜)の拷問と虐待を説明した。ウクライナ第二の都市があり、南と東のドンバス地方に通じるハリキウ州の村では、略奪と無差別の激しい砲撃が行われたと言う。
RFE/RLのウクライナ・サービス調査部門「スキーム(Schemes)」との別の8月16日の電話で、ロシアのサマラ地方ヴォルガ川近くのノヴォトゥルカ村出身のシュマトフは、2月24日の侵攻直後の別の作戦での男性殺害容疑についても情報を提供した。
ロシアとウクライナが加盟している国連のジュネーブ条約(1949年)では、拷問、故意の傷害、捕虜の殺害、民間人を故意に狙うこと、軍事的必要性のない広範囲の財産の破壊は全て戦争犯罪とされている。
キーウは侵攻以来、約32,000件の戦争犯罪の疑いについて調査を開始した。2014年3月のクリミア占領と同年4月以降のウクライナ南東部ドンバスでの戦争に参加したロシア軍唯一の平和維持旅団、第15個別機動小銃旅団は、これらの調査の中で取り上げられている。
ウクライナで最も活発な人権監視団体の一つであるハリキウ人権保護グループは、ハリキウ州のロシア占領地域から避難してきた400人以上から調査要請を受け、ニュース報道やソーシャルメディアなどのオープンソースを通じて約4000件の事件を確認している。
しかし、占領地域へのアクセスがないため、ウクライナ人や国際的な権利活動家は、そうした報告を容易に調査することができない。
ハリキウ人権保護グループの弁護士、ハンナ・オヴディエンコは、「状況は非常に複雑です」と述べている。「今のところ、犯罪のほとんどは、(占領地に)アクセスできないために隠蔽されています。」
それでも、衛星写真、通信データ、シュマトフ本人のコメントから、「スキーム」は、兵士が語ったとされるロシア占領下のハリキウの村の位置を推定することができた。
携帯電話の足跡
ロシアにいる家族との携帯電話の通話が最初の手がかりとなる。
法執行筋から入手した詳細な記録によると、ウクライナの携帯電話ネットワークは、侵攻が始まって1週間後の3月3日に、キーウから北東に約140キロ離れたチェルニーヒウ地域の場所で、シュマトフの電話からの信号を初めて拾ったことが後で判明した。ロシア軍が首都奪還に失敗し、ウクライナ北部のチェルニーヒウやキーウ周辺から撤退した約1カ月後、彼のデジタル痕跡は消えていた。
4月中旬、北から撤退したロシア兵の多くが再配置された東部3地域(ドネツク、ルハンスク、ハリキウ)にまたがる携帯電話タワーが、再び彼の信号を検出した。
4月15日、SBUは彼の携帯電話から2つの通話を傍受した。
ウクライナが運営する安全でない携帯電話ネットワークの地域での携帯電話の使用により、ウクライナ軍はロシア軍の情報を繰り返し盗聴することができた。
しかし、シュマトフは、その危険性を知っていたとしても、気に留めなかったようだ。
「俺達は何でも撃っていた」
「スキーム」が父親と断定した人物(とりわけロシアで住所を共有している)との通話で、シュマトフは、旅団がGrad多連装ロケットランチャーのミサイルと機関銃で村を攻撃し、装甲人員輸送車で三方を囲んだと述べた。
「俺達は、家、車、あらゆるものを撃った。俺達は...戦車とAPCで全ての家を引き裂いた」と、「スキーム」がスタニスラフ・シュマトフのものと特定した声は、頻繁に罵倒する言葉を使いながら言った。
「俺達は捕虜を2人捕まえた。AK-47、ライフル、SVD(スナイパーライフル)を奪ってやった」と彼は言った。「片方の耳を切り落としてやった。」
録音によると、彼の父、アレクサンドル・シュマトフは、「何のために?」と尋ねた。
「奴がは話したがらなかったから、耳を切り落としたんだ」と答えたと言う。
父親のシュマトフは「厳しいな」と言ったが、息子はそうは思っていなかった。
「額に銃弾を受けたわけでも、装甲兵員輸送車に四つ裂きにされたわけでもないんだから、まだいいじゃないか、軽いもんだよ」と、スタニスラフ・シマトフの声とされるものは言った。
奴らなら(兵士達)「指の1本や2本を切り落としたかもしれない」あるいは、100発の弾丸を発射して被害者を ”ざるにした“ かもしれない」と笑いながら付け加えた。
村の「大掃除」
父親との電話の中で、シュマトフは自分の住んでいる場所を正確に言っていない(本人は知らないようだ)。しかし、村の中を走る鉄道、川、近くの森など、目印となるものの名前は言っている。
ウクライナ政府によると、ハリキウ地方のロシア占領下の村ボロヴァにある通信塔から、シュマトフと父親の会話が送信されたことが記録されている。
ボロヴァの村役場長、オレクサンドル・テルティシュニーは、この地域を離れたが、シュマトフが、オスキール川とオスキール貯水池に沿って南に15キロ半離れた近くのピスキー・ラドキフスキー村について述べたことはほぼ間違いないと言う。
ロシアメディアの報道によると、ロシア軍は4月15日にピスキー・ラドキフスキーに入った。
テルティシュニーは「スキーム」に、ピスキー・ラドキフスキーのある建物で、ロシア兵が「我々の国民、特に反テロ作戦のメンバーである人達を尋問した」と語ったが、これはドンバスでロシアの支援を受けた軍との戦争で戦ったウクライナ人のことを指している。
彼らはドンバスで戦った地元の人々の「リストを集めた」とテルティシュニーは続け、ピスキー・ラドキフスキーのロシア占領軍について「彼らは非常に残酷な振る舞いをしました」と語った。
情報筋は、身元を守るため匿名を条件に、ロシア軍が4月にこの村を占領した際、数人のウクライナ軍人がこの村で捕らえられたと「スキーム」に話した。安全上の理由から、「スキーム」はその軍人の名前を公表していない。
しかし、ピスキー・ラドキフスキーで起きたことは、捕虜だけに影響を与えたわけではない。
シュマトフは4月15日の親族と見られる女性、ゼレズニコワとの会話で、彼は彼女に、ロシアが「ナチス」から村を「解放」したと誤った内容を実際に説明し、指揮官が村の建物の破壊を命じたと指摘したのである。
「あなたの指揮官がその命令を下したの?」とゼレズニコワと判明した声が尋ねた。
「ああ、そうだよ」シュマトフの声と思われるものが答えた。「大隊長、旅団長、副旅団長、”全てのアホみたいに立ってるビルを壊せ、くそったれ、見つけ次第だ。全ての建物を破壊するんだ“ ってね。」
ボロヴァ村のテルティシュニー村長は、ロシア軍がピスキー・ラドキフスキーを占領した後、住民が「長い間」地下室に住んでいたとの報告を受けたと言う。彼が伝えるところによると、市民は機銃掃射で死亡した老女の遺体と一緒に1週間も地下室にいたそうだ。
「スキーム」はこれらの報告を独自に確認することはできなかったが、米国に拠点を置くPlanet Labs社のピスキー・ラドキフスキーの衛星画像は、破壊の程度を表している。
シュマトフは、自分の旅団が村の3面を攻撃したと記録している。
村の北側、サドバ通り沿いには、4月15日にロシア軍がピスキー・ラドキフスキーに入ったルートであることを示す地元の人々や他の証拠があり、衛星画像では完全に破壊されたいくつかの建物を見ることができる。
村人が撮影し、「スキーム」に提供された写真は、この通りの被害を更によく表している。
衛星画像では、Tsentralna通り沿いの民家が更に破壊されていることも確認されている。
占領されたウクライナの他の地域と同様に、ロシア軍による略奪や市民の強制退去の証拠もある。
俺達には銃がある。俺達はクソ戦車もある。
偵察に行った兵士達が、ソーセージやマヨネーズ、ラードを持って帰って来たと、彼は父に言った。
「店に入ったのか?」 アレクサンドル・シュマトフが不思議に思った。
「もちろん、そんなことはない」と息子は言った。「奴ら(兵士達)は人を襲うんだ。奴ら(住民)が邪魔する訳ないだろ?俺達は銃を持っているんだぜ。」
「まあ、そうだな」
「俺達にはクソ戦車がある。俺達ともめれば、家を失い路頭に迷うだろうよ。ご勝手にだ。」
「それでいいのか、ええ?」
「そうしなけきゃいけないんだ」
避難民やその他のウクライナ人は、ピスキー・ラドキフスキーにいる親戚と連絡が取れなくなったという情報を求める投稿を日常的にしている。「知人はひどいことを聞いている」とある女性ユーザーは書いている。
ロシア国防省は、自国兵士が占領地でウクライナ人捕虜を拷問・虐待した、あるいはウクライナ市民を虐待したという過去の報告を否定しているが、その否定を裏付けるような情報は提供されていない。
否定と脅し
8月16日、「スキーム」はシュマトフがウクライナで使っていた携帯電話番号に電話をかけ、シュマトフと連絡を取った。負傷してロシアで療養中の彼は、ハリキウ地方に赴任している間、「一人の囚人(捕虜)も見たことがない」と言い出した。彼は、SBUによって傍受された電話に記述された暴力に対する個人的な責任を回避したのだ:
彼は、ハリキウ地方の村への襲撃を(親や親戚に)説明した時は、「そこで奴らがしたこと 」と 「奴らが言ったこと 」を言ったのだと主張した。誰かの耳が切り落とされたのかと聞かれ、「正直言って、俺の旅団と俺の部下達、俺と一緒にそこにいた兵士達は、誰もそんなことはしていない 」と答えた。
「スキーム」の記者がウクライナのジャーナリストだと名乗ると、シュマトフは「もう一度、俺の旅団や俺の仲間の誰かに電話したら、お前のバカ頭を撃ち抜くぞ」と脅して、やりとりを終えた。
しかし、シュマトフは否定しているにもかかわらず、(彼が)ウクライナでの最初の任務でロシア軍に捕まったスポッターと称するウクライナ人男性の殺害に同僚のロシア軍人を巻き込んでいる - 明らかに2月24日の侵攻後の数週間の北部での攻防を指している。
彼は少し笑いながら、「その男達」が工場で囚人(捕虜)にひどい打撃を与えたとスキームに語った。「そして射殺した。」
それでも彼は、兵士が戦争犯罪を犯したことを否定してこう言った。「そんなことはしていない。」
シュマトフは当初、旅団長が兵士に民間人へのテロ行為を命じたかとの問いに直接答えなかった。
「俺は、言ってみれば自分のいる場の雰囲気でそこにいたようなもんだ。誰が何をしようと誰のことも気にしなかったよ。」
しかし、その後、彼はゼレズニコワに建物を破壊して「全員制圧しろ」と命令されたと話したことについて聞かれた。
「まあ、そうだな、この命令はあったよ」と、彼はスキームに語った。
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