
ソロ活の居心地と宿のコンセプト
「ソロ活」が市民権をつかみはじめている
そう最近聞くようになって、あぁ、私がしてることってソロ活なんだ。って、ソロ活という単語が生まれて、名前をつけてもらった気分です。
いい時代になったなと思います。
今日は、私がしたい理想の宿「れんげ荘」のコンセプトを語るうえで欠かせない内容です。下手な文章ですが、世の中にニッチな需要があると信じて、掘り起こすつもりで、筆圧強めに書きます。
およそ3,000字、お付き合いいただけると嬉しいです。
ソロ活をする理由とか背景って、もちろん人それぞれだと思うんですけど、私は、ドラマ「ソロ活女子のススメ」で主人公が言っていたのと同じで、
他人が苦手でひとりが好きってわけではない。
旅行だって、ひとりでするのも、友達や恋人、家族とするのも、楽しみ方や喜びはどれも種類が違って、どれも好きです。
じゃあ、私はどんなときにひとりで過ごしたいかというと・・・
・頭の中がぐしゃぐしゃで整理したいとき
・めっちゃ仕事頑張ったあとのご褒美
・日々のルーティンから抜け出して気分転換
それに、ソロ活で何をするかってのも、もちろん様々で、
私は「ソロ活女子のススメ」のように、リムジンチャーターとか、熱気球、ラブホ泊とかみたいな、珍しいことはしたことがなくて、
私のソロ活はというと・・・
・旅/車中泊
・外食/カフェ
・映画館/美術館/博物館
・舞台/ライブ
という、ハードルの低いものです。
それに、旅とか車中泊といっても、その旅先ですることって、それ以降の項目全部なので、日ごろ気分転換でしていることと同じです。
ソロ活っていうより、ただのひとり時間ですね。
家とか職場でない、他の場所に移動して、無差別にインプットしたり、頭の中の整理をしたり、何も考えずにボーっとしたりっていう時間が、時々必要なんです。
今この瞬間も、家から車で5分くらいっていう、すごい近所の商業施設のフードコートにいますが、人の様子とか話し声、食べ物の匂いとか、なんか、心地よい。
それをぴったりの言葉で表現してくれたのが、
雑誌「&Premium」の「ひとりの時間は大切。」という特集の中での、作家・柴崎友香さんの言葉です。
散歩や映画鑑賞、書店巡りをして「出かけてひとり」という時間
街の中で知らない人に囲まれてひとりで歩いているときが、いちばん自由を感じます。
それと同じような心地よさを、私が「まぎれる」と言うようになった、
ある居心地の悪い出来事があります。
4年間働いたゲストハウスを辞めてからすぐ、
気になっていたゲストハウスに泊まりに行きました。
それは小さな島の海辺にあります。
歩いて一周できるくらいの本当に小さな島で、住民も確か60人くらい。

橋はなく、島を出入りするのはフェリーのみ。
観光スポットも文化施設もないので、往来するのはたくさん生息する猫の写真を撮りにくる人くらい。
目立った商店もありません。そして住人のほとんどが高齢者。
そんなところを、アラサーとはいっても一応若者の私が歩いてて、目立たないわけがない。
外で座っておしゃべりしている3・4人のおばあちゃんたちが、私を遠目にみつけたとたん、
「あら、観光の人かね。スカートはいとられる」
と話すのが聞こえました。
その瞬間に私は、居心地悪いと感じました。
おばあちゃんたちに対する嫌悪感ではもちろんありません。
「すみません、おじゃましてます。空気を乱すつもりないんです」
って縮こまるような居心地悪さ。
そう、浮いてる。「アウェイ感」です。
や、もちろん、「アウェイ感」が、楽しくすごすために必要なときもあるんです。
海外旅行がわかりやすいかもです。
日本人の私が外国人ってすぐわかってもらえるような国を旅すると、現地の方が興味もって話しかけてくれたりして、思いがけない交流がうまれ、楽しい思い出になることもしばしば。
そういうときは、むしろ「アウェイ感」を前面に出していきますよね。
だけど、ひとりの時間を過ごしたくてする旅のときには、この「アウェイ感」は邪魔なんです。
この島への旅の目的は、そのゲストハウスに泊まることと、仕事を辞めた自分へのご褒美時間です。
そのゲストハウスというのは、海沿いの遊歩道の横にあり、ドミトリーの窓からは、素朴で穏やかな瀬戸内の海が眺められる、贅沢な宿です。
私が理想のひとつとする、「水辺のそばの宿」なので、じっくり観察するのが最大の目的でした。

想像通り、そのゲストハウスはとても素敵でした。清潔感のあるリネンで統一されていて、夕食も朝食もとても美味しい。
オーナーの若い夫婦が二人で営んでいて、ふたりとも統一感のある雰囲気でかわいらしい。
でも正直、宿の中も居心地悪かったです・・・
結構広いのに、夜はリビングが閉められるので、のんびり過ごせるのがドミトリーのベッドの上だけ。
それに、他にゲストはもうひとりだけしかおらず、しかも常連さんで、オーナー夫婦と話が盛り上がっている様子。私が加われる感じでもない。
とてもいいゲストハウスなので誤解のないようにしたいのですが、
今回の私のひとり時間には合わなかったです。
2泊するつもりで宿泊費を支払っていましたが、次の日の午後早い時間に島を出ました。
この居心地悪く感じる原因について、島から自宅に帰りながら、そしてその後もずっと考えていました。
それで気づいたのが、先の「まぎれる」心地よさです。
例えば、ひとり時間をすごすうえで心地よいのは、ある程度にぎわっている、街の喫茶店。
ひとりの人、複数で来てる人、本を読んでる人、PCで仕事をしてる人、おしゃべりしてたり、もしかしてウトウトしてる人もいるかも。
でも誰も違和感ないですよね。
それって、自分の存在はもちろん見えてるから認識されているけど、誰も注目しない、いい意味で無関心だからかな、と思うんです。
また引用させてください。
一人だろうが、二人だろうが、店の人には関係ない。ひとりで焼肉なんて変な人だと思われないだろうか、なんて気にしているのは自分だけ。他人というのは良くも悪くも、意外と人に対して無関心だ。
ひとりで、カップルがたくさんいるような場所へ行くのは恥ずかしい。でもその行きづらい気持ち、恥ずかしい気持ちは、自分が勝手に想像してる他人のリアクションによるものだ。でも現実は、客が女ひとりだろうと、客は客として平等に扱われ、他の客は私に特別な関心をもたない。
要するに、自分の生き方を狭め、自分の自由を制限しているのは、他人じゃない。他人のせいにしている自分自身だ。
ー僕は半ば茫然としていた。なぜならこの店のドアを開いてなかに入ってから10分近くが経過しようとしているのに、誰ひとり、かなり珍しいはずの東洋人である僕に、一瞥もくれないからだ。まったく普段のままなのだ。無視するでもなく、ここに知らない人物が唐突にいることにあえて気づかない振りをしているのでもなく、空気は実に自然だった。
そのあまりの自然さに気圧されて、逆に浮いたような気分になっているのは、どうやら自分ひとりだけのようだった。そうか、緊張しなくてもいいんだ、と安心した僕は、その自然な空気に自分を馴染ませようとした。
私が思う「ソロ活」と「居心地の良さ」とは、そういうことです。
それを自分なりに「まぎれる」と表現しはじめたとき、群ようこさん著書「れんげ荘」を読み返してみると、運命的にも出だしでこんな文が。
駅前は再開発でビルが建ち並んでいるが、少し歩くと古くからの住宅街が広がっている。駅周辺は今風の格好をした若者たちが多いが、それにまじって古くからの住人とおぼしき、高齢者の姿も多い。
(ここだったら、まぎれて暮らせる)
これはもう、理想の宿「れんげ荘」のコンセプトは「まぎれる」で決定です。