スネイルサロン
小糠雨の住宅街を歩いていた。暗灰色の雲が空の低いところに立ち込めている。時々、自身の重さに耐えきれずに落ちてきた雲が、石綿のようにアスファルトに転がっている。
出勤しようと家を出たのに、今日はいくら歩いても住宅街を抜けられない。細かな雨粒を浴び続けた私のスーツは、一層黒さを増し、一段と重くなっていた。
私はある建物の前で足を止めた。住宅街に不釣り合いなその建物は、何かの店舗のように見える。外壁はベージュのモルタルで、入口の扉の上には創英角ポップ体のカタカナ六文字、「ネ」「イ」「ル」「サ」「ロ」「ン」が貼り付けられている。
スチール製の扉を開けると、内側には透明の断熱カーテンが垂れ下がっていた。断熱カーテンをくぐった先には、また同じように断熱カーテンが下げられていて、その向こうに入口と同じような扉がある。外とは違う類の、暖かい空気と湿気が感じられる。どうやらこの建物は温室になっているらしい。
二つ目の扉を開けると、肌に貼り着くような湿度を感じた。受付のカウンターから「いらっしゃいませ、初めてのお客様ですね」とテンポ良く話しかけられると、私は少し狼狽えた。
「はい、初めてなのですが予約をしていません。それにこちらのネイルサロンは、男性も受け付けてもらえるのでしょうか。」
受付は、少し不思議そうな顔をしていたが、すぐに表情を和らげて「可笑しなことをおっしゃいますね」と笑った。
「当スネイルサロンは、カタツムリのお客様ならどなたでも歓迎いたします。」
「え、なんですって? スネイル……?」
受付ははきはきと「スネイルサロンです」と言った。
「カタツムリのお客様を対象に、殻のケアをしています。」
私は動揺して、「ネイルサロンだと勘違いしていました」とか「私はカタツムリではありませんし」とか言って店を出ようとした。しかし受付は私の言葉など重要ではないといった様子である。何気なくカウンターに視線を落とした受付は、「あら」と大きな声を上げた。
「お客様、失礼いたしました。先ほど、落ちてきた雲がぶつかって、外の“ス”が取れてしまっていたんです。」
見るとカウンターの隅には、創英角ポップ体の“ス”が置かれていた。入口の上に貼り付けられていたものなのだろう。
「後でエピフラムでくっつけておきますね。」
何でくっつけるんですって? と尋ねようとする私を遮って、受付はこう言った。
「お客様は立派な殻をお持ちのようですし、当サロンで対応できますよ。いかがされますか。」
すると何だか私は、以前から自分の背中に大きな殻があったような気がしてきた。ではお願いします、と口篭りながら言うと、受付は奥の部屋へと私を案内した。
奥の部屋では、大小様々のカタツムリたちが、殻を磨かれたり、殻に何かを塗られたりしている。それらのカタツムリに殻のケアをしているのもまたカタツムリで、小さなカタツムリには小さなカタツムリが、大きなカタツムリには大きなカタツムリが施術をしている。
受付は私を部屋の最奥にいる巨大なカタツムリの前まで案内した。巨大なカタツムリは「本日担当いたします、スネイリストです」と私に挨拶をする。よろしくお願いします、と私も挨拶をして、スネイリストの前に殻を下ろす。受付は「ごゆっくりどうぞ」と言い、手前の部屋に戻っていく。今更ながらよく見ると、その受付の後ろ姿はカタツムリである。
「今日はどのようなケアをご希望ですか」とスネイリストに尋ねられ、私は答える。
「お任せします。何しろ、こういう場所は初めてですから、勝手が判らないんです。それに、殻のケアだなんて考えたこともありませんでしたから。」
「承知いたしました。それでは、殻の汚れを落としてから、艶を与えるケアをしていきましょう。」
スネイリストはそう言うと、何やら少し準備をしてから、湿った綿のようなもので私の殻を拭き始めた。
「お客様、左巻きなんですね。私はこの仕事を始めてしばらく経ちますが、左巻きのお客様にお会いすることは滅多にありませんよ。」
スネイリストにそう言われると、何だか私は昔から左巻きの殻を背負って生きてきたような気がしてきた。
「ええ、そうなんです。珍しいですよね。大抵は皆、右巻きですから。昔から他のカタツムリとコミュニケーションが上手く取れなくて、苦労しました。」
私は淀みなくそう言った。
右巻きのカタツムリたちは、口も右側にあるので、すれ違う際に触れ合うことができる。けれども左巻きの私の口は左側にあるので、皆と同じようにコミュニケーションを取ることができなかった。辛い思い出が、鮮やかによみがえってくる。スネイリストは「ええ、それは、大変だったでしょう」と相槌を打ちながら聞いていた。
殻を綿で吹き終えたスネイリストは、「次は細かい所の汚れを落としていきますね」と言い、細長い器具で渦の隙間を磨き始める。生まれてこの方、殻を磨いたことなどなかったのだから、相当汚れているのだろう。私は今まで殻のケアを怠ってきたことが恥ずかしくなって、「すみません、大分汚れているでしょう」と謝った。
スネイリストは明るい声で「いえいえ、気にしないでください」と言う。そして細長い器具を動かし続けながら「でも殻はカタツムリにとって大事な器官ですから、定期的にケアするのが良いですよ」と付け加えた。
殻が大事な器官だと言われると、私は何だか急に自分の殻が愛おしくなってきた。そして今まで殻をぞんざいに扱ってきた自分が情けなくなり、殻を蔑ろにする世間の風潮に対しては静かな怒りが込み上げてきた。
「巷では、殻に籠るなだの、自分の殻を破れだの言われていますけれど、殻は大事ですよね。ああいったことを言う連中は、私たちが殻を破ればナメクジのように生きていけるとでも思っているのでしょうか。そんなことをすれば、カタツムリは死んでしまいますよ。」
スネイリストは「ええ、ええ、全くです」と言いながら聞いている。
「それでは最後に、艶出しの液を塗っていきますね」と言って、スネイリストは小さな筆で粘りのある液体を塗布し始めた。少し冷たさを感じたが、塗られていくうちに体温が馴染んでいく。
「サロンにはどれくらいの頻度で通うものですか」と聞いてみると、スネイリストは答えた。
「お時間のあるときにお立ち寄りください。カタツムリというのは、なかなか忙しいでしょうから。のんびりしているように思われがちですがね。」
そう言われてみると、私はカタツムリとして生まれてから、確かに忙しく暮らしてきたような気がした。けれども同時に、「マイペースで良いですね」と言われることが多く、私はそれが気に食わなかった。私が実のところ忙しくしているからというのも理由の一つだけれども、そもそも自分のペースではないペースで生きているものなどいないのではないかというのが、引っ掛かる点である。
私がそんな話を何となく口にすると、スネイリストは「そういうことを言うのは、きっとお客様を羨んでいるからでしょう」と言う。
「全くマイペースに生きていけない奴も、中にはいるんです。昔、私の友人がロイコクロリディウムに寄生されましてね。触覚に入り込んでカタツムリの行動を操る、あの寄生虫ですよ。それはもう、悲惨でした。皆でどんなに言い聞かせても、危険なことを止めないのですから。結局、友人は悲痛な最期を迎えました。」
私は「それはお辛かったですね」と言いながら、兄のことをぼんやり考えた。私の兄は十数年前、カルト宗教にのめり込んだ。どんなに家族が説得しても無駄だった。とうとう兄は財産を全て失って、姿を消した。
私はスネイリストに、兄の話でもしようかと思った。けれども兄の顔を思い出そうとしても、脳裡に思い浮かぶのはロイコクロリディウムに寄生されて異様な目つきになったカタツムリの姿だけだったから、何も言わないことにした。
「お疲れ様でした。本日のケアは以上です。」
スネイリストはそう言って、小さな筆や液体の入った瓶を片付け始める。私は「ありがとうございました」と丁重にお礼を言って、スネイルサロンを後にした。
住宅街には、相変わらず細かな雨が降り続けている。殻の汚れを落としてもらったからだろうか、心做し体が軽い。緊張感の緩んだ私は空腹を感じて、近所のコンクリートを舐めに行くことにした。