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ぬるま湯

  十代の頃、私はこの島で暮らしていた。それは遠い昔の話である。
  私が島を出てからも、家族は暫くこの島に住み続けていたから、何かと訪れることはあった。けれども今では家族も皆引っ越してしまったから、島を訪れる用事はもはや無い。もう二度と訪れることは無いであろうと思っていたこの島を再び訪れることになったのは、何かの手違いで島の役所に書類を提出する羽目になったためだ。役所を後にした私は、朧げな記憶を辿ってバスのチケットセンターへ向かっていた。これから港行きのバスに乗って、港から帰りの船に乗る。
  およそ十年ぶりに訪れた島は、様変わりしていた。最も目立って変わったのは、島の各所に流れている大きな川に橋が架けられたことである。かつて島を流れる川に橋は無く、私は毎朝学校に通うために二つの川を泳いで渡らなければならなかった。
  橋を渡って暫く歩くと、広い農道の傍に簡素な屋台が見えた。どうやらその屋台こそがチケットセンターであり、帆布の屋根にはラミネート加工された路線案内の紙がいくつか吊るされていた。
  吊るされたものの中から港行きのバスの案内を探していると、一つの案内書が目に入った。それは他と違って真っ赤な紙であり、黒い文字でこう書かれていた。
「港行きのバスは、運転士が全員薬漬けになりましたので、廃便となりました。」
  徒歩で行くには港は遠すぎる。どうしたものかと狼狽えていると、かつての友人二人がやって来た。二人とも十代の頃に私と同じ学校に通っていた友人で、二人ともその当時の姿のままだった。
  久しぶり、と声を掛けると、彼女たちはまるで昨日も私と会っていたかのような素振りで此方に手を振った。
――港に行きたいんだけど、バスがなくて。
  私がそう言うと、車に乗せて行ってあげるよ、と友人の一人が言う。
  三人で駐車場まで歩いて行く途中、私はもうこの島を訪れることはないのだということを思い出した。
――実は、私の家族はもう全員島から引っ越してしまって。
  だからもうこの島に来ることは決して無いの、と言おうとすると、友人は言った。
――じゃあ、もうあんまり・・・・来られないね。
  私は続けようとしていた言葉を呑み込んで、そう、あんまり来られないの、と言った。
  港へと向かう車の中で、友人はハンドルを握りながら、彼女のペットの話をした。とても賢く、可愛いモルモットで、もう長らく一緒に暮らしているという。
  私がモルモットの名前を尋ねると、ぬるま湯、と彼女は答えた。なんだか私はぬるま湯という名前のモルモットを昔から知っているような気持ちになり、その時丁度、車は港に着いた。

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