フーバリングはあるけれど
最近、私の中での、虐待者の存在は小さくなってきた。
一つには、物理的に接触しなくなったということにあると思うが、
思い当たることは、あるフライングモンキーの職場訪問に対して、割ときっぱり毅然と対応した。
それが良かったかどうかは分からない。
その後、何かしら理由をつけて、来訪しようとしてきていたが、
コロナを理由にお断り。(断ったのは私の上司。組織のルールのため)
その後も別のフライングモンキーが、仲介者的に私と共通の友人を通して接触しようとしてきたが、
実現はなされなかった。
当人のSNSは、ブロックすると逆上する恐れがあると考え、ブロックしていない。
しかしたまに気になって見に行くと、
前は私に対して投稿の制限がかけられていたようだが、
今は見ることができるようだ。
みんなで楽しそうにワイワイしている写真だ。
羨ましいと思わなくなった。
なぜそんなリア充アピールに必死なのだろう。
がんばってるな。また私のこと取り込みたいか、自慢したいんだな
と冷静に思えるようになった。
コントロールによって成り立っている関係だな。よく考えたら、性格やばいし、よく考えたら見た目も別にすごくないし、よくみんな付き合ってるな。(苦笑)
自己陶酔が足りてないのかな。
自己愛性パーソナリティ障害の人の教科書通りなので、本当笑ってしまう。
そして、最近心境の変化があった。
虐待者にして感謝のようなものを感じるのだ。
あれだけのことがなければ、私は教会を出ることが出来なかっただろう。
今人生で新たなステージに私は行けて、その人のおかげで今があり、
また、カルト的なグループに対しての理解、自己愛性パーソナリティ障害への理解が深まった。
もちろん本人に会ってしまった時のことを想像すると
不安は感じるものの、
どーでもいいというか、
ああ、私癒されてきてるんだな
大変だったけど、
ありがたかったな
と思えてる自分もいて
驚嘆しているのである。