本当に心配してくれた友人と「許しなさい」という言葉について

私は、カルト化教会を脱会してからというもの、聖書をなかなか開けなかった。聖書を開くとトラウマ反応がすごいのだ。

別の教会には行けるようになったが、今日あることがきっかけで、「私が脱会した教会に今も通う友人」が私を訪ねてくれた。

彼は私に、「もういいから〇〇教会(某教会)に来なよ。ほんとにあなたのことが恋しい」と言った。心から心配してくれていることが、うわべだけの言葉ではないこと、またその態度からも、よくわかった。

彼は某教会に今も行き続けているが、上層部とは、私の知っている限り良い距離感を持っていて信仰もバランスがとれているようにみえ、某教会では唯一健全な信仰を持っているといえる1人、と私は個人的に思っている人である。さらには、私が信仰を持つ前から、ずっと友人関係が続いているという貴重な存在である。このことには本当に励まされてきた。

詳細は言えないけれど、私は初めて彼に、あの時何が起こったのかをかいつまんでではあったが、正直に話すことができた。彼は、「ゆり(私)自身のために、上層部の人を許すように」という一見、教科書通りのような意見を私にした。それに対して私は、「あなたは私に何が起こったのかわかっていない。」と返した。

彼はいきなり泣き出した。彼は、ここ数年のうちに彼に起こった複数の大変な試練と葛藤のことを話してくれた。彼は激しく泣いていた。そして私は彼の信仰を見た。

「人生は短い。イエスにある信仰しかない。僕は信仰をあきらめる事は絶対にしない。」

魂からの叫びだったと感じた。

そうか。このタイミングで私はこのことを聞いた事に対し、思いを巡らせていた。

何故か今日、某教会の牧師夫人がくれた可愛いネックレスを私は首に付けていた。私は某教会に関係のあるもの、思い出させる物をことごとく結構処分していただけど、このネックレスに関しては、苦々しい思いがありつつも、なかなか手放せなかった。身につけることはできなかったのにもかかわらず、だ。そしてもらったときのシチュエーションはすごく嬉しいことであった。でもなぜかこのネックレスを私は今朝、つけようと思ってつけてみたのであった。
その日に彼が訪ねてきたのである。

いろんな話をし、彼は帰って行ったが、またすぐに会おうと約束した。教会へ行くのはまだ難しい、というか、牧師である某先生の方が、追い出した人たちへまず謝る責任があるのでは?なぜ私にだけ謝れというのか?とわりと私は突っ込んだ質問を投げかけた。
こういうことも今まで私はできなかったから、すごーく前進したと思うし、
また、私も彼に対してなら言える、と思えたから言えたのだろう。
このことに対しての彼の回答は、そういうことじゃなくて、人を許す、苦々しい思いを持っていることはあなたにとってよくないんだ、というようなことで、私の質問には直接答えていないようだったのだが笑😅

そして色々な話ののち、彼は去って行った。
またすぐに会おう、教会へは私は行けないと言うと、別の場所で会おうと言ってくれた。

そして彼の帰った後、私は必死に部屋の掃除を始めた。すると、某教会でみんなである場所へ旅行した時に、ある方がフォトブックを作ってくれていたのだが、それが出てきた。

冷静に見ることができた。
変な事件が色々と浮き彫りになった旅であったが、
楽しかったこともいっぱいあったなあ、
と思った。写真の中の私は美しかったし若かった。

そのように回復していることはある意味すごいと思った。

しかし私は、ゆるしなさいの件が、
どうも腑に落ちなかった。

今の教会の牧師にこの話をした。
何が起こったかよく分かっているこの牧師、色々話してくれたあと、最後に
「ゆるさなくていい」
と言ってくれて安心した。

まず相手方が、悔い改める気がない、
とか、
そういう状態で和解する、ということは
上辺だけの和解にしかならない。

それは意味のないことである。

和解は神からの介入がなければ無理である。
自分の力でしようとするものではない。

そもそも、謝る気があるなら、最初からこういうことになっていない。

これは何も私が和解を望んでいないということではないし、神様も和解せよと言っていると思う(でもそに根拠となる聖書箇所を今の私は思い出すことができない。さて、どこで言っているだろう…。)

むしろ、できることを切に望んでいるし、ずっと祈っている。

このような葛藤が人生にない人は、実に幸いである。

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