哀しき「養分」
初めてスポーツを観戦したのは、夜の神宮球場だった。内野席、ビジター側。テレビでずっと見ていた光景がそこにはあった。小学校低学年だったと思う。デパートで買ってもらったおにぎりを食べながら観ていて、試合は負けたような気がする。何故ならホーム外野席の踊るビニール傘を、憎らしげに思った記憶があるからだ。
そこから、色々なスポーツを観た。
30年以上が過ぎた。
今、私はバスケットボールを観ている。
私にとって、スポーツを観ることは「趣味」であり「娯楽」であり「癒し」だ。
スポーツを「する」側でないから参考に勉強するわけでもなく、応援はするけれど自分が何かを成し遂げたいわけでもなく、何か崇高な目的があって人の役に立つために観ているわけでもない。
日常を忘れ、楽しめるから観ている。
ただそれだけである。希望する席のチケットを購入して、用意された視界の中で、人並外れた努力と才能から得られる運動能力を目の当たりにし、エキサイティングなスポーツを楽しむ。応援ができて、目の前で行われている闘いに参加できたような幻想を抱くことができるような気がする。
だから好きで、観に行く。
プロバスケット…「Bリーグ」と、更にそこへ昇格できる資格を得られる可能性のある「B3 リーグ」を観に行って、率直に感じたことがある。
お金、ないんだな。
ということだ。悪し様に言っているのではない。プロスポーツを取り巻く環境は、シビアなものだ。学生スポーツも観ていたことがあるが、そういったものよりも、有料興行はファンを確保するのは難しく、質を担保するのにはお給料を払わねばならず、会社として経営に成功しなければならず、それには営業をして、スポンサーを得てチームにお金を出してもらわねばならない。
とても困難だと思う。現在、Bリーグは36チーム。昇格を目指すB3リーグでプロ形態のチームは10チーム。少なくとも46チームがその苦労をしていることになる。
もちろん各都道府県にある地域リーグにも、将来のプロ化を目指しているチームもある。
多くのチームがあるということは、それだけ多くのスポンサーが必要であるし、スポンサーの方々、地域の方々やスポーツファンに、バスケットボールがお金を使うに値する価値があるものだ、と伝えていかなければならないのではないか。
でも現状、お金は、ない。
そうポンポン出てきたら世話がない。今のチームには、トップクラスであれ、特別な何かをしようとする余剰金はないだろう。強ければ強いほど、来シーズンの期待も高く、より高給の選手を獲得する必要がある。そして下位に沈むほど挽回を狙わねばならず、規模が小さくなればなるほど、大手のスポンサーは難しく、かと言って降格するわけにもいかず、常に経営は苦しいだろう。
「Bリーグ」には、リーグ参戦するための「ライセンス」が必要だが、ライセンス審査の時期に毎年話題になるのは債務のことだ。
非常に苦労の多いことだと思う。スポンサードは、あまり景気の良くない日本では並大抵の努力では得られるものではない。運営の方々の営業努力を、本当に尊敬している。
また、ファンもまだ野球の年月ほど全世代に浸透しておらず、サッカーほど観戦や結果が注目されることが少なく、ラグビーほど代表戦での盛り上がりが取り上げられていない故、なんの施策をせずとも来場するのは、いつも決まったバスケットボールフリークの皆々様ばかりだ。
同じ面子。
繰り返すが、貶したいわけではない。私もその中のひとりである。それぞれの理由で、バスケットボールが好きな人々なのだ、と思っている。
いつもお金がないチームがどこかにある。
いつも同じようなメンバーが応援している。
手っ取り早く、ぶっちゃけて言えば、払ってくれそうな人にお願いして資金を募るしかない。
クラウドファンディング。
バスケットボール関連で、何度もその単語を聞いた。
私には、推しチームが無い代わりに、推し選手がいる。各地にチームが存在していることは、私にだってとても大切。彼の活躍の場はできるだけ多く必要だし、彼の実力に相応する対価が得られる場所もあればあるほどいい。素晴らしいチームに好きな選手が思うようなバスケットボールで貢献できたら、ファンの私にとってもこんなに素晴らしいことはない。
だから私は普段から「推しの養分になりたい」と呟く。彼は選手だから、私はチームから選手グッズを買って売り上げに貢献したいし、チケットもできるだけランクを上げて購入したい。サイン会に参加できるのならそのグレードのファンクラブにだって入りたいし、「この選手がいることでチームの収入が増える」ことはチームにもスポンサーの方々にも決して悪くないことだと信じている。
ただ、これは私の慈善事業ではない。あくまで趣味だ。彼のバスケットボールが私を心の芯から楽しませてくれる、と知っているから、それがあまりにも素敵で幸せだから、それに感謝をこめて私が払う対価をできるだけ多くしたい、というだけのことだ。
話をクラウドファンディングに戻そう。クラウドファンディングは、クラウドファンディング会社の手数料の取り分がそこそこ多いことを除いては、なかなかいいシステムだと思う。
先行投資的に良質なアイデアにお金を払うこと、実現したらリターンと呼ばれる成功報酬を支援者が優先的に得られること、そしてなにより、幻想ではなく実際に応援の気持ちが現金としてチームに届くことで、好きなチームに文字通り計画に参加できる喜びがある。
クラウドファンディングのシステムはよくできていて、決済されるたびに達成率が随時更新されていく。常にチェックでき、募集側はそれを報告して募り、ファン側も気にする。あと少しの段階になると「最後のお願い」をチームもファンもしだす。
目標額が達成することもあるし、達成できずともチームの貴重な収入になることができる。
いい面を書こう。
目に見える形の(例えば何かの製作費を募った場合など)計画ならば、実現した際には出資者の喜びが綴られる。見ていて微笑ましいし、その「もの」が永く使われていくと嬉しいものだと想像できる。
イベントの計画であれば、参加した人や出資した人が成功を喜ぶ。何かを実現させるにはお金がいるから、たとえ小額でも大勢で積み上げればできることがあるのは、イベントを企画する側でなくても楽しいものだ。
ただ、それだけでは済まないから書いている。
本来、ここで文を終わりたい。小額から楽しく好きを援けられればいいですね☆で〆れば平和なのだ。
正直、経営者が実は儲かったとか、資金を捻出せずに企画が成功してお得だと思うとか、また逆にイベントには資金は足りず補っていたとかがあったかもしれない。だが、そういう「かもしれない」はどうでもいい。
富豪でもない、ただのファンである。あくせくと平凡な仕事をして稼いだ生活費から、ほんのちょっとだけ残った金額を好きなことに使っただけ。私のような小市民は、好きなことに楽しくお金が使えれば働いた甲斐がある、というものである。
だから金額に納得できる楽しみがあればいい。私がよく使う表現は
「うまく騙してほしい」
だ。楽しく騙されていたい。ここでの騙す、は詐欺的な悪い意味ではなく、気持ちよくお金が払えた、というだけの意味である。
スポーツの世界は私にとっては現実であって現実ではなく、人生の中で、観ている時間だけで得られる一瞬の夢のようなものだから、それでいい。
だが「騙す」のが難しい案件が多過ぎた。
「新しいことをやりたいからお金が足りない」
というより、
「今支払いに困っているから助けてほしい」
という案件が増えたからだろう。今シーズンは何件も見た気がする。それだけ、スポーツを、バスケットボールを、取り巻く環境が厳しいことが分かる。
もちろん、資金はある程度は集まる。詳しいそれぞれの額は分からないけれども。
バスケットボールフリークは知っている。
チームはすぐに消えてしまうし、消えたら戻ってこないこと。
でもチームさえあれば、いつか、という夢は捨てないでいいこと。
そのチームに、救いたい人がいるならば、手を差し伸べたい。という気持ちがあるから、決して安くはない金額を決済する人がいる。
ただ、理路整然とした理由や改善方法なく困窮を述べる論理に納得がいかず、払わない選択をする人もいるだろう。
同じ人たち、と上記に先述した。
ここで払った人、そうでない人との無駄な分断が起きるのも、それぞれの本意ではないだろう。
また、決済が終わり資金調達に成功しても、礼を失するような態度があれば気持ちは曇る。社会人として働いて、どんな僅かな金額でも支払うことが、息を吐くように簡単なわけではない。幾ら好きでもだ。これも、ファンは決して望んだことではないだろう。
目的は人それぞれだが、最初楽しかったから、スポーツを観に来たはずだ。バスケットボールをだ。悲しみや諍いを見たい人はいないだろう。
プロスポーツならば。
騙すのも、プロであってほしい。
2020.04.16.