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フェーズ

お元気ですか。こんにちは。私は意味もなく疲れています。ただ、連休に突入するにあたり、そのままでいるのもなんだかもやもやして、今回、思うままに書いたら厚みも熱量も、非常に暑苦しくなってしまいました。

混乱

我々は今、混乱の最中にいる。
これはパニックだ。大きな主語を用いるのは好きではないが、確実に言えるのは現在は人類のほぼ全てが、パニックの状態に陥っている。

私とて当たり前に例外などではなく、その中でどうにかこうにか、毎日息をしている。

混乱を極めた状況の中、毎日目を凝らしている。なるべく多くのものに目を通し、なるべく遠くから、そして近くから、思考することだけは止めないように生きた。

きっとこの原因も混乱も、コントロールは出来ない。そしてこのなかで自らもコントロールできているのかは自信もない。多分、これには打ち勝つこともままならない。ただ、考え続けることだけは続けている。

思うに、混乱と疲弊の直中でも、色々なフェーズが存在しているような気がしてきた。

これは一切の根拠もなく、ただ嵐の中で死なないように強がる、自分への慰めのひとつだ。書き記しておくことに、現在はなんの意味もない。いつか読み返すことはあるかもしれないが、それは分からない。

闘争

初めのうちに感じられたのは、凄まじい闘争状態だったように思う。敵が何であるかだけは、ほぼ最初から明白だった。

必死で情報を仕入れ、その真偽を問い、日々更新されていくそれを追いかけ走り続けた。立ち止まることはほぼ許されず、翻弄されつつも得た知識から導き出されたのは何だったのか。

それはたぶん、この闘いに勝利などない。終わらない”二週間”を永久に繰り返していく中で、同じことを喚き続けるテレビの中で、流言と扇動が渦巻く仮想現実の中で、ぼんやりと形を成してきたものは、そういった絶望に近い何かだったのではないか。

憤怒

敵が予想を遥かに超える強大さで、我々に襲い掛かったとき、驚愕を超えて生まれたのは響く怒号から生まれる憤怒である。

例えようのない怒り。それは、直接の敵には言葉が通じないこともあり、様々なものに向けられ、そして今現在も向けられている。怠慢な政治への、愚鈍な指導者への、下劣なメディアへの、やむを得ない感染者への、無法な外出者への、出勤を止めない会社への、休まざるを得ないものの困窮への、些細な発言への、そしてこの禍とは全く関係のないトラブルやニュースへの。

ひとつひとつは小さな悲鳴のようなものかもしれなかったものが、集まり続け止まることなく鳴り続けた果てにあったのは、多量で途方もない、怒りの感情である。

放棄

そして、怒り続けることは、我々のエネルギーを奪う。互いに奪い合う。

徐々に肉体的にも、精神的にも疲労していく先に口を開けているのは大きな暗闇だ。この禍からは逃走することが出来ず、地球の何処にいても追いかけてくる敵に、追い詰められた我々の一部は、良識に近い何かを手放そうとしている。

拡大を忘れて一時の遊興に耽ること、必要のない用事を自らの中で容認しつつも他者への事情を顧みず責め立てること、必需品の買い占めに走り家に積み上げて不安を誤魔化すこと、理論や統計の一切を捨てて陰謀論に身を窶すこと。

おおよそ理性的でないがそこには、耐えられない現実を手放してしまいたい痛いほどの悲しみが、存在しているのかもしれない。

渇望

だが、我々の中で最も多いであろう者は、放棄せずに耐え忍び、生き続けている。死者を弔い悲しみ、心に大きな傷を負いながら、慰め合い友と抱きしめ合うことすら自らを律して禁じ、自分にできる最大限の役割を考え、日々の小さな癒しを探し提案し続け、積み重ねてきた技術を駆使し実行し、遠隔で声をかけ続け励まし合い、違う立場を理解しながら無事を願い、憂いながらも今日もどこかで精一杯生き延びている。

それは人の生への渇望であり、築き上げてきたものが崩れ去るのを必死で食い止めようとする叡智であり、今まで得てきた元の生活への、愛した人や物への、尽きることのない恋慕であり飢えだ。

書いていると苦しくて堪らない気持ちになる。ここで私情を書くとするならば、現在の私は休職せざるを得ず、子供達を守るという口実のもと、ひたすらに生産性の少ない無為な時間の中にとり残されている。

諦観

最初のうち、気持ちを奮い立たせようと、終わったらすることを綴っていた。食べたいもの、やりたいこと、行きたい場所、リストアップしてストックしてある。だが、それを振り返ることは今はしていない。

終わりの見えない環境で、かつてを懐かしむことはあっても純粋な前向きさでぎらぎらと輝くのには、目標もエネルギーも足りなすぎた。ならば置かれている場所を楽しもうとしたものの、精一杯やることにも次第に疲れていく。バリエーションに限界が生じ、遠くの旅が恋しくなるばかりだった。

私は何か寄与できるものは何もない。引き篭もっていることは働かなくていいよね、という言葉に晒されるし、育児に疲弊することすら申し訳なさを感じた。気持ちは落ち込み、苛つく言葉を目にしては見えなくする作業が増えた。

子供たちが私を笑わせようと話しかけに来てくれることが増えた。無為に家から飛び出したりせず、頑張っている子供たちを褒め、庭に出て深呼吸をするようになった。

傲慢

毎日庭に立つと、牡丹は咲きそして散り、新しい芍薬の蕾が芽生え、梅の実は日々大きくなっていた。季節は止まってなどいない。

地球はまだ生きている。

誰にも分からないことだが、生き続けるには、敵である、と前述している、その前提自体を変化させなければならないのかもしれない。

勝てずに苦しむのは敵対するからなのではないか、ということだ。

敵でなければ勝ち負けで語れない。季節は巡り、地球は息をしていて、まだ我々も滅びていない。

滅びてはいないが、人類は傲慢だ、とは感じている。私は書き続けることのポリシーのひとつとして、環境問題や人権の話、政治的な発言を自分の書く場所ですることは積極的にしない。けれども、人は傲っている、と感じることは多い。何かを支配して満足したり、何かの想いを操ったり、何かを無理矢理入手して弄んだり、そんなことをしてばかりだ、と感じている。だが今回はそれが通用しない。

共生

通用しなかったとき、打ち勝てないものへの、やるせない嘆きを互いにぶつけ合い、傷つけ合うのではなく、新しく生き続ける道が、きっと何処かにあるのではないか。

それが果たして予防接種なのか、特効薬なのか、罹患しない新しい生活様式なのか、感度の高い検査体制なのか、市井の民である私には予想ができるわけではないが、敵としてではなく共存しつつ、再び友と抱き合える日々が帰ってくること、それが導き出されるときが、辛抱の後に来るのだろう。

というか、来なければこの混沌とした毎日が終わらない。同じ二週間を繰り返すだけの毎日は、人類にはそう長く続けられそうにない。

現に、懸命に最前線で立ち続ける人々がいる。未来に向かって動く人々がいる。再び出会えることを願って鍛錬を続けている人々がいる。一介の市民には出来ないことばかりだ。その存在は眩く、勇気を与えるはずだ。忘れてはならない。尊い努力をしている人々は未来そのものだ。

これは逃避でもなく、無謀な楽観視でもない。励みにしただけだ。羨む必要も妬む必要もなく、真似をして意識の高い生活をしなければならないのでもない。混沌の中でもなるべく怒りを鎮めること、静かに傲慢さを振り返ること、出来る気がしている。共生者そのものをコントロールすること自体が無理だというのならば、自身がコントロールに挑戦できるのは自分の内面くらいだ。

新しいかたちで始められることを考え、憤怒に支配されすぎず、前向き過ぎて疲れ過ぎず、誰かの事情を踏み躙らず、かつ、共存者に侵食されすぎないように、私は私なりに生き延びたい。

繰り返すが、私も混乱の渦中に留まっている者の1人だ。これをいつか読み返して、駄文だと懐かしむ日が来ること。それだけを願い、書いている。



2020.04.29.