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悲しんでいるだけでは差別は終わらない。 痛ましいニュースばかりが届きますが、これらは決して他人事ではなくて、自分の心の中にある「意味もなく分けてしまう先入観」と戦うときでもあると思います。 分からないことを極端に恐れる気持ちは、人間の中にあります。自分だけは全くない、と言い切れる方がむしろ不審ですらあると思います。 綺麗事を言ってもどうしようもないので、思うことは 見た目や出自や性別や嗜好などに関係なく、優しい人は優しく、賢い人は賢く、素晴らしい人は素晴らしい。ただ、
「登竜門」の由来はご存知ですか。 中国の故事からきています。黄河に「竜門」と呼ばれている激しい急流があると言われていました。急流のふもとに集まっている鯉は、決して「竜門」を登ることができないとされていましたが、登ることができた鯉は竜になれる、という言い伝えからきています。 「後漢書」の「李膺伝」には、漢の時代に、李膺と呼ばれている偉い官僚がいて、彼に認められた若い人は皆出世をすると言われていました。李膺に認められることを、竜門を登る言い伝えに例えて「登竜門」と呼んでいたと
「推し」ている人やことは生きることそのものには必要のないことは最初から分かっているのだけれど(なぜなら推しがなかった頃も息をしていたから)、もちろん私の存在も推し側からしたらいてもいなくても全く関係のないことで、そこには意味もさしたる理由もないのだけれどこれは俗に言う「推し」ているのだなと実感した日から基本的に毎日が幸せだ。 何度かnoteにちらっと書いているが、私の「推し」はプロバスケットボール選手である。 観にきませんか、と、とある方から声をかけられ4年前、久しぶりに
まだ公式に発表されていないことを先に知った時、それを漏洩させる人はどこかにいます。抱えた秘密の大きさが重いからか、単にそれを先に知った嬉しさからか、それともよかれと思って届けるのかは、想像しかできないのですが、噂話が正しかったときは実際ありうることです。 現代の噂話は、単なる伝言ゲームでは終わらず、指先一つで永遠に消えない場所に書き込むこともできます。 噂話の性質自体を否定しているわけではありません。人間が求める欲求なかのひとつとして、よくあることだと思いますし、もしかし
「人と比べないのが楽しく生きるコツ」と言いながら、分かっていながら、他人との比較に躍起になること、よく見ませんか。 それって、辛くありませんか。 私は人と競争するのとか、人にコントロールされることとか、人と比べられることは大嫌いです。なかなか大嫌い、使わないです。でも書くくらい嫌悪しているもののひとつです。 ちなみにそれが学力テストとか、営業成績とか、ゲームの勝敗とか、そういう類のものは実績の評価としてきちんと上を目指します(成績が良くなくても良い方を尊敬します)。それ
私の書く文はどうにも修飾が過多で、思ったままを書くと偽善的というか、なんだかゴテゴテしてしまうというか、どうやら本心でないように取られることも多い(逆に、自分側の意見や気持ちとして書いたことが、誰かの人格否定として誤解されることも多い)のだけれど、残念ながら嘘を書けるほど上手に生きられていないので、きっとずっとこのままだろう。 いつ何であれ、書いてあることは私の本心だ。時によって移ろうし、反省なり改善なりして過去と照らし合わせれば矛盾も生じるかもしれないが、それを引っくるめ
遠隔でのトークショーの多い昨今。ありがたいことですね。元気なだけでありがたいです。しかし乱立してくると目が肥えてきてしまいます。わがままにならない範囲で思うことを。 そもそも、トークが立つわけはないと思うのです。その道のプロではない。もちろん稀有に上手い方もいますが、口下手なスポーツ選手にも魅力は沢山あります。 ただ、単に迷子のままで終わると、自身のブランディングに響くような気がして心配。何もゲラゲラ笑えなくたって何の問題もないけれど、何も為せないのは緊張したのにもったい
「なんでもいい」はときに嘘つきだ。 人には誰しも思っていることは存在している。だが、それを言うか言わないかは、人によってラグがあり、まちまちだ。私は比較的その溝をすぐに越えてしまうタイプで、他人から見れば「言わなくてもいいことをすぐ言う」ようにも見える。 「なんでもいい」はよく使う言葉かもしれないが、だからこそ、それだけでは足りない。なんでもいい、と任せたとしても、否定ばかりは出てくることはないだろうか。 よくあるのは、友人とご飯を食べるときに「なんでもいい」と言う人は
人との距離感がわからない。踏み込みすぎてはいけないことと、知り合っても余所余所しいままは、失礼だということは何となくわかる。 分からないのはこんなときだ。 知人はAは苦手だ、と話す。私はAが好きだ。それを知人は知っている。私は黙っていた。 私は知人の好きなBはあまり得意でない。私が実はBは苦手だと言ったのを、知人に聞かれたらずっと怒っていた。 あと、こんなとき。 友人はAをとても大切にしていたので、私は時にはAを褒めるなどしつつ、友人とAとの時間は邪魔しないよう気遣っ
個人的に、フォロワー数でマウントを取る時代は終わったと思っている。が、それについて書く。 今、Twitterは半自動で貼られるnoteのリンクとたまに見るRTだけになったので、私のフォロワー数は増えることはないし、どんどん減るだろう。現在見てきたら2200人くらいだった(多分こう書いたから、それに気を悪くして減る)。Twitterは単なるバスケ好きのアカウントで、仕事にするわけでも商材にするわけでもなく、情報収集と好き勝手言うのを兼用しているアカウントだ。 自慢か。自慢じ
完全に復職して前と変わらない量の仕事に戻るので、外に出る勇気を得るために少し古いものを読んでいた。 Holstee manifesto というものだ。 少し高圧的で暑苦しいが、日本語訳とされているものも載せておく。 これはあなたの人生です。 自分の好きなことをやりなさい。 そして、どんどんやりなさい。 何か気に入らないことがあれば、それを変えなさい。 今の仕事が気に入らなければ、やめなさい。 時間が足りないのなら、テレビを見るのをやめなさい。 人生をかけて愛する人を探し
今、私たちにされている蓋はいつか開けなくてはならない。新しい時代が来るとは誰もが言うけれども、それは蓋を開けずに実現できるものではないことは、閉じられた蓋の中の暗さを実感すればするほど、そうすぐに新時代が到来するには準備が不足している。 ただ、その蓋を一気に開けたり突然全部閉めたりを繰り返すには、犠牲が増えすぎるのも予測できているし、それはたぶん当たる。 蓋の外に出る勇気を持たなければいけないのと同時に、その蓋は少し開けては様子見をし、また開けては戻るという、不確定な中で
喪失感は自覚するとさらに悲しくなるから、バスケットが観たい、ということに関して書かないように書かないようにつとめている割には、普通に毎日今日もルークさん(私の好きな選手)は元気だろうかと思っているし、今週末もバスケがないのか、と思っている。 元の生活が戻ってこないという前提で暮らすのであれば二度と現地であの距離であのプレーは観られないわけで、それを考えるとたまらなく悲しくなるわけだけど、たとえ配信だけになったとしてもプロスポーツ選手がそれで生きていける世の中であって欲しいな
持っていたお気に入りのスタバのタンブラーが、よく見たら2006って書いてあって、我ながら引いた。うちでガンガン消費するのは肉くらいで、あとは捨てられなかったり穴が開くまで使っていたりする。ケチというより気に入ったらずっとそれがいい。 できたら人ともそうしていたい。齟齬があっても互いの違いに寛容になれる距離をもちたかったし、いつのまにか親切にしてやっていると立つ位置に違いが出たことに気づかないフリをしたかったし、きっとそんなことはしていない顔をしてにこにこしていたほうが賢いん