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遺骨にドロップ

 ピアノ教室の清水先生が事故で死んだ。誰にでも優しく、分け隔てなく真摯に向き合ってくれる先生だった。今日はその先生のお別れの会に親友の茜と来ていた。茜とは高校のクラスが一緒で、偶然同じピアノ教室だったこともあり気が許せる数少ない友達だった。
「先生、何で飲酒運転なんて」
 瞼を腫らした茜は、普段の先生からは想像出来ないのは当然だった。先生を知る人間は皆口をそろえてあんな慎重な人間がなぜ、と疑問を口にする。しかし、ひとりだけ自分は例外だと言い放つ女がいた。それが板倉ひとみという嘘吐き女だ。
 ひとみは完璧な黒と悲しみを纏ってお別れの会に現れた。目を潤ませ、唇は震え、それでも自分を見ている人間を意識しているのは明らかだった。
「嫌な女」
 聞こえないくらいの声で言ったつもりだったが、ひとみはぴくりとこちらを向く。
「板倉さん」
 先生の弟がひとみに近づいてきた。
「祐二さん――この度はご愁傷様です」
「こちらです」
 祐二に支えられるようにして斎場へ入っていった。
「板倉さん、やっぱり先生と付き合っていたんだ。少しショック」
 茜がぽつりとこぼす。
「嘘よ、先生は」
 私と付き合っていたのよ、と声を大にして言ってやりたかった。でも、先生に気持ちを伝えた時、大っぴらに付き合うことは出来ない秘密の恋だよと約束させられた。その約束は先生が亡くなってからも破ることは躊躇われた。邪推されることも、くだらない噂になることも我慢出来ない。
「板倉さん、巧いこと清水家に入り込んだわね。先生が駄目なら、弟の方か、やるわね」
「これで音楽一家の仲間入りね」と、年配の生徒達がやっかみ半分でそんな噂をしていた。
「先生とお別れの日なのに」
 悔しさと悲しみで目の中が真っ赤に燃えてしまったみたいだ。
「里香、大丈夫? 顔色悪いよ」
「ごめん、帰る」
 ひとみの強かさを恨みながらも、大人の女性であることに強烈な嫉妬心を持っている自分を認めたくなかった。
「板倉さん、ほんの少しでいいから分骨してほしいって言ったらしいわよ」
ぴたりと足が止まる。
「結婚の約束をしていたからって、でも、ほら本当かどうか分からないじゃない。ちょっともめているらしいわよ」
 最後の方は少し笑いを含んでいるように聞こえた。
「冗談じゃない。そんなことはさせない」
 くるりと踵を返し、斎場へ戻った。板倉ひとみを中心に、親族が集まって話し合いをしているようだった。時折、大きな声でひとみを非難する声と、仲裁に入る祐二の声が静かなホールに響いた。今なら、焼香するふりをして遺骨を持ち出せるかもしれない。その刹那、ひとみと目が合った気がしたが、すっと目を逸らし話に戻った。庇ってくれたのか、ただの気まぐれなのかその隙に脱兎のごとく遺骨を抱え斎場を飛び出した。

 濃紺の制服に遺骨を抱える姿は異様に映るらしく通りすがりの人々は皆一様に目を丸くする。商店街を抜け、あてもなく電車に飛び乗る。今頃斎場では大騒ぎになっている事だろう。ひとみが、犯人を意気揚々と暴露しているかもしれない。それすらも、愉快に思えてしまう自分はやはりどこか螺子が一本取れてしまっているのだろう。車内の人たちは幽霊か何かを見るような目つきでそそくさと遠くの席に座る。その方が先生との思い出に浸りやすいから好都合だ。まるで、生前出来なかったデートみたいだった。

「今、何て言ったの」
「ピアノ、辞めなさい。習いたければ新しいピアノ教室探すから」
「嫌よ、何でお母さんに決められなきゃいけないの」
「あなた、生徒だから先生に気を使われてはっきり断られなかっただけよ。  聞いたら、板倉ひとみさんという方と結婚するって言うじゃない。きちんとお勤めしている大人の女性よ。あなたは高校生、話にならないでしょ」
「勝手なこと言わないで、私のことは私が決めるの」
 母は先生との交際を反対しピアノ自体を辞めさせようとしたばかりか、黙って先生に会いに行き、話し合いを重ねていたらしい。本当に大人は姑息だ。あんな母だから、父は他の女の為に出て行ってしまったのだと怒りがこみ上げてきた。
 小さく深呼吸すると、鞄の中でカタカタ揺れるドロップ缶に気づいた。母がいつの間にか入れてくれていたものらしい。先生の事で口論になってから必要最低限の事しか口を利いていなかったから気づきもしなかった。遺骨の上でぱこりと蓋を開ける。覗き込むと全てのドロップが苺味なことに思わず口元が緩む。一つ口に放り込むと『お母さんには内緒だよ』と笑う父の顔が思い出された。カラリとドロップ缶を揺らすと何かが缶の中に押し込まれているのが見えた。
「先生、ちょっとごめんね」
 遺骨の上にハンカチを広げ中身を全て出してみた。周囲に甘い香りが広がり、小さな男の子がこちらを指差すのを母親が嗜めた。缶から出てきた巻紙を破れないようにそっと広げる。母の几帳面な筆跡で父の現住所と電話番号、そしていつでも連絡してみなさいと添えられた文字を見て小さく舌打ちする。大人たちは何でも先回りしようとする。迷った挙句、電車の乗り換えを携帯電話で検索する。思ったよりは遠くない。
『お父さんより好きなひとが出来たら、お母さんに内緒でこっそり連れてきなさい。パフェを奢ってあげよう』
 小学生の頃、父が言っていたのを今でも覚えている。母には言えなかった気になる子のことも、父になら言えたのは少し自分との距離があったからかもしれない。でも、今はまた別の意地悪な気持ちでその願いを叶えてやろうと思った。先生との思い出に浸ろうと思ったのに、思い出すのは両親との事ばかりだ。先生との思い出と言えば、個人レッスンが始まる前の数分と終った後にこっそり一緒に屋上でコーヒーを飲むことくらいだ。ごくたまに、自動車でドライブに連れて行ってくれたことがデートらしいデートだろうか。ピアノでの指導でかけられる言葉や重ねられた細い指の熱の方がよっぽど濃密な時間に思えた。ぽろりと涙が頬に伝う。そう言えば自分はまだ泣いていなかったのかもしれない。自覚すると、不思議と涙が止まらなくなった。遠巻きで見ていた小さな男の子が、母親を連れてとことこ歩いてくる。戦隊ヒーローの顔が付いた絆創膏を手の甲に貼られて我に返った。母親は申し訳なさそうに笑う。
「痛いの痛いの飛んでいけ。飛んで行った?」
「うん、飛んで行っちゃった」
 男の子に微笑んで見せると、満足そうにバイバイと言って電車を降りて行った。窓の外を見ると、パラパラと小雨が降り始め、開いていた窓から流れ弾みたいに頬を打った。

『留守番電話を聞いたよ、びっくりした。元気か?』
 電話口で聞く父の声は擦れて低く、少し記憶と違う気がした。父も緊張していたのかもしれない。
「うん、特別元気って訳ではないけど。まあまあかな」
 父は笑っていた。
『じゃあ、迎えに行くから、改札を出たあたりで少し待っていて』
 父は割と自由が利く仕事をしているらしい。突然会いに来た娘に、どんな顔をするだろう。勝手なことをしたと怒ってくれるだろうか。それとも迷惑がるだろうか。私はただ、父に、母に、そして先生に、復讐をしたかったのかもしれない。
 傘を差してこちらに翔けて来る男性に父の面影を見た。ああ、早く来て。私は逸る気持ちを抑えながらセリフを何度も繰り返す。
「ほら、私の好きなひとを連れて来たよ」
 ぽんと遺骨を叩く。そしてパフェをご馳走してもらうんだ。先生と二人分。それで手打ちにしてあげよう。雨が思い出を流していく。


                           了

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