「叱らない」が子どもを苦しめる、は親側が覚悟をもって子供と接する大切さを伝えている
こんにちは。海外人事のユリです。
投稿が久しぶりとなりました。
今回の書籍はこちらです。
構成は以下の通りでした。
・1章 子どもの不適応が変わってきた時代
・2章 成長に必要な世界からの押し返しの不足
・3章 子供の不快を回避する社会
・4章 ネガティブな自分を受け容れていく
・5章 予防のための落穂拾い
この中で私が特に気になったのは、2章です。
テーマは「思い通りにならない場面への強烈な拒否感」を感じる子どもへの対応。
学校は社会の縮図。
自分の思い通りの科目だけ受けたい、
気が乗る時間だけ勉強したい、
宿題は面倒だからやりたくない、
などと言っていられないことを、学校のルールとして学んでいく場所でもあります。
事例として上がっていたのが、
・都合が悪い状況ではいじめと主張する、
・授業時間が長いから学校に行かない、
・算数は嫌だから休みたい
など。
こういうのは、子ども個人の特性に起因して起こるのでしょうか。
もちろんその側面も要因としてはあるでしょうが、ここでは親などとの関わりが大きいと書いています。
子供が自分にとって思い通りにならないことは、小学校に上がる前から幾度となくあったはず。
その時にどう親が対処していたか、が重要。
◾️理想的なパターン
1.子供が悪いことをする
2.親がその行為は◯◯だからダメ、やめてほしい、と叱る
3.子供が泣く、機嫌を損ねる
4.親が慰める、受け容れる
◾️こどもを苦しめるパターン
1.子供が悪いことをする
2-1.親が叱らない
2-2.鬼から電話が来ると脅す
2-3.店員さんに怒られるからやめて等他の人の気分を害すと主張する
3.子供が泣く、機嫌を損ねる
4.親が慰める、受け容れる
苦しめるパターンでは、2で親が自分で叱らないことが理想との違い。
親が叱って、でもまだ子供なので親に頼るしかなく、親に慰めてもらう。
このループを回すことの良いことは2点。
1点目は、親が叱ることで、子供は反発して押し返すことができること。
自分の思い通りにならないことを、親からの叱りを通じて受け入れていく過程として、このごちゃごちゃしたやりとりが重要。
逆に、鬼から電話がきても鬼には反発ができず、店員さんが困るからと言われても店員さんに反発することもできない。
押し返すことができないので、心の中でのフラストレーションが溜まっていき、その蓄積が学校等での思い通りに行かない事象をきっかけにして、学校への不適応という形で現れるようです。
2点目は、「叱られた後に同じ人から慰められる」というループを通じて、悪いことをしても、そんなネガティブな自分を受け入れてくるる人がいると認識できること。
叱られるような行為をするような自分。
そんな欠点があっても、取り繕わなくて大丈夫、そのままでいていいんだ、という絶対的安心感を得られることが、子どもの成長にとって必要不可欠なのだという。
これからを踏まえ、
なんとなく社会から見える親子像として、最近は叱ってはいけない(特に家以外の場所で、子供を叱っている人を見ると、子どもが可哀想という気持ちになったり…)、また、ありのままを受け入れることが大切、という風潮があった気がする。
ただ、それを続けていくと、誰にも押し返すことができず、ままならないことを受け入れることもできない人になってしまうのだな、それは怖いなと感じた。
だから、やめてほしいことが出てきた時は、Noという。叱る。
ただ、叱りっぱなしではなく、慰めるところまで親が担う。
ただ叱れば良いというものでもないので、
I messageを使うなど工夫する
(私は◯◯をされて悲しくなったから、やめて欲しいな、など)。
現代って子どもにとって生きづらい社会なのかなぁと思いつつ、必要に応じて叱ることで、しなやかな強さを持った子供になってほしいなと感じる本でした。
では、また。
ユリ