私の大好きなアラブ人の話
12月23日金曜日、私は語学学校で知り合ったシリア人の友人と、フランス・ストラスブールに出掛けた。ストラスブールの街はクリスマスマーケット真っ盛りで、節電が呼びかけられているドイツと違って、多様な電飾が私の目を楽しませてくれた。街の中心部にあるノートルダム大聖堂は、外から見ると荘厳なのに、中には繊細な芸術があって、何時間いても見飽きないと思った。
クリスマスマーケットに行った、とは言ってももうそれ自体には慣れっこのわたしたちであり、久々の再会ともあって、マーケットには目もくれず、ほとんど喋り通しだった。今何を勉強しているやら、学生生活の何が大変だやら、お互いの進学後に初めて会ったこともあり、話題は尽きなかった。
特に私が好きなのが、彼からアラブの文化・イスラム教の説話を聞くときである。ミュンスターの港で彼の文化における家族観を教わったのが始まりで、彼はそれから何かと自分の文化のこと、アラブ人としての彼の目線から見た物事を話してくれるようになった。
9.11以降、私達日本人は、アラブ文化・イスラム文化の影の部分のみを見て、それがイスラムだと断定してはいないだろうか。イランの女性運動を見て、タリバンの独裁を見て、イスラムという言葉に付随する感情は常にネガティブである。
私自身もそうだった。私が触れる情報は常に不自由と死と隣り合わせの世界としてのイスラムについて。そして、なぜその残酷と言われる世界に未だに人が残っているのか、私は考えることもしなかった。
そんな私に彼が教えてくれる価値観は常に新鮮だった。彼は難民としてドイツに滞在しているが、アラブ・イスラムの文化を心から愛していた。だから、彼から聞くイスラムの話はいつも明るく、優しく、ポジティブだった。
カタールで開催されたサッカーワールドカップの話は、特に印象的だった。
私がドイツにいて見えるカタールの姿は、ボイコットのチラシだった。ハイデルベルグの街にもいたるところに貼られていて、血を連想させる黒インクとサッカーボールの組み合わせ、いかにもおどろおどろしかった。
調べて出てくるニュースも、カタールでの開催に先立って、建設準備中にすでに何千人が死んだ。カタールの、人権を無視する強硬姿勢は改められるべきだ、など。たしかにそれはあったことだろうし、その酷さは目も当てられない。それは私が今まで見てきたイスラムの姿と同じだった。
対して、彼が私に話してくれたカタールワールドカップは、全く異なる印象を受けた。カタールは言わずもがなイスラム教の国であり、イスラム教徒はアルコールの摂取を禁じられている。会場でも、アルコールは問題を引き起こしかねないということで、禁じられた。しかし、ヨーロッパから来た観客はそれに文句をつけたという。ヨーロッパ、少なくともドイツではサッカー観戦の伴に馬鹿みたいにビールを飲むのが慣習で、今回も、そのように自分たちのルールでサッカーを見たかったのだろうと彼は言った。しかしそれはイスラム文化への配慮・尊敬にかけた行動であり、彼らの間では良く思われなかったという。観戦中の態度もひどかったそうで、ヨーロッパ人の観客は大いに顰蹙を買っていた。だから、決勝戦、アラブ人のほとんどは、フランスではなくアルゼンチンを応援した。
彼は、西洋人の態度だけでなく、日本人についても話してくれた。
彼が言うには、会場にいた日本のサッカーファンたちが、いきなりゴミ拾いを始めたのだという。自分たちの観戦席だけでなく、日本の試合だけでなく、日本が全く関係のない試合でも、彼らは自主的にゴミを拾いはじめ、掃除をして去っていったらしい。アラブ人たちはそれにひどく感銘を受け、自分たちもゴミ拾いをしようという風潮がなった。友人も、とても興奮していて、喜んでいた。実際の日本人の行動がどうであったにしろ、この話から、私はアラブ人の文化への敬意、そしてその純粋さを垣間見たのである。
彼らは自分の文化が脅かされることに憤った一方で、ゴミ拾いという他国の献身の文化を尊重し、積極的に取り入れるのだ。
彼は、私の暗くどんよりとしたイスラム観にいつも光を投げかけてくれる。
そのたびに、私は自分がいかに狭い視野で物事を見ているかに気づく。さらにそれは、私も同様に見られていることを示す。そうして私は、私がドイツで、ヨーロッパで、育ったのと全く異なる文化圏で学問をすることの意味を振り返るのである。
昨年は怒涛の年だった。私にはドイツ語で日本文化を説明することなんて無理だと嘆くことは何度もあった。
今年は、私の大好きな彼のように、日本のことをポジティブに説明できるようになりたい。私が文化の架け橋の一つになるのだ。
私の心は朗らかである。
Das Essay für meinen Schatz