自己主張をすること/友人が教えてくれたこと
ヨーロッパで一年以上を過ごしても、私にとって自己主張をすることはあまり簡単なことではありません。私の妹もそういう類の性格で、私と比べられて育ってきたせいか、もともとの気質なのかはわかりませんが、私よりも何かを伝えることが苦手で、自分とコンタクトを取ろうとする相手に対して、常に警戒心をむき出しにして怯えます。自分のやりたいこと、言いたいことを積極的に伝えようとしません。そしてうまく伝えられないことを後悔し、さらに消極的になってしまうのです。
今回は、そんな私の妹に向けて記事を書いてみようと思います。
彼女に届くことはきっとないけれど、私にとって彼女と向き合ういいきっかけになるでしょう。
自己主張をする必要性について、私は友人の中国人から教わりました。
彼女とは同じ語学学校に通い、午後の授業を同じクラスで受けていました。
彼女のドイツ語はあまり高度なものではありませんでした。難しいことをいうことはなく、簡単な言葉で、しかしたくさんの具体例を用いて、自分の気持ち、その時の状況を相手に伝えることがとても上手でした。
初めのころ、私は彼女を相手にすると常に聞き役でした。彼女の人生史は波乱万丈で、それに比べると日本に生まれ、金銭的に困ることもなく暮らしていた私はとてつもなく平凡でした。
彼女の話を聞くうちに、その波乱万丈な人生の中で、彼女が得た教訓のようなものが、私にもなんとなく見えてくるようになりました。
話をするのが上手な彼女は、何よりも自分を主張することが上手でした。
自分がどういう人間で、何をしたくて、何について困っているか、彼女はすぐに相手にわかってもらうことができました。
知らない人とでもすぐ打ち解けることができて、誰もがすぐ彼女のことを彼女だと認識できるようになります。中国人の女の人、ではなく、リウという名前を持った人間として。
私の友人にとって、個としての自分を相手に認識させることは処世術の一つでした。自分を理解させて、相手の懐に入り込み、コネクションを築く。彼女が生まれつき持っていたものは本当にとても少なくて、他人とのつながりでそれを補ってきたのです。
飽食の国、物があふれる国に住んでいた私は、彼女より必死に他人とかかわったことはありませんでした。必死に自分の存在をアピールしたことはありませんでした。
でも、いまヨーロッパにいる私は、その必要性を痛く感じています。コネクションを得るためだけではなく、私を私として認識してもらうという根本的な理由のために。
彼女のパートナーのドイツ人が言っていたことですが、ドイツは未だ根強く差別の残る国だと。私に直接の経験はありませんが、私の知り合いの男の子が何人か、見知らぬドイツ人に理由なく殴られたことがあるそうです。
それは、彼らが名前のないアジア人やアラブ人の誰か、としてその差別主義者に目をつけられたからだと思うのですが、もし、その差別主義者が、殴った相手の名前を知っていて、過去を知っていて、いままでどんな苦労をして育ってきたかを知ったら、その人を再び理由なく殴れるでしょうか。
私は殴れない、と思います。人生の背景を知る相手に対して、理不尽な怒りは沸かないと思うのです。
そういう意味でも、自分のやりたいこと、やりたくないこと、といった簡単なことも、自分の得意なこと、困っていることという具体的なことも、それに付随する理由も、何もかも言って、他人に対する自分自身を明らかにするべきなのです。私がドイツで生きぬく術として。ドイツ人にとっての見知らぬ他者として。
日本は本当に恵まれた国です。日本人として日本で過ごす限り、私の妹はそのまま変わらずとも、最低限の生活ができます。日本人は、相手が日本人である限り、いくらでも受け入れる余地を持っています。
でも、彼女が少しでも相手に自分をさらけ出すことができたら、生活はもっとしやすくなると思うのです。理不尽に対して今よりも泣かなくて済むのです。
そして、私たちも他人を知るべきなのです。名前を持つ個人として。
私たちもその人を知れば、相手に対する突発的な怒りや苛立ちは覚えにくいと思うのです。
自己主張は他者理解でもあり、そして、単なるコミュニケーションの一部にすぎません。そして、言葉だけでなく、表情や仕草でも伝えることができるものです。
今後も、あまり構えず、怖がらずに向き合っていきたいと思います。
大切なことを教えてくれた友人と幸せに過ごしてほしい妹に向けて