キャンプのレシピ
「人間関係そのものを破壊する重大な危機」
航空バブルをもたらした新自由主義を根本から批判し、空港の虚偽の「公共性」を厳しく指摘
小作であろうと農民としての生きる権利がある
消費者から『おいしい』という言葉を聞いて自分の体を動かして働く方が大事だ
新自由主義のもとで苦境を強いられる日本農業の現状と、市東さんの農業実践の意義
らっきょう工場
有限会社三里塚物産は有機農産物の加工と販売を目指して1978年に設立。伝統的な製法を基本とした、添加物を使用しない製品を作り続けている。地域では親しみを込めて「らっきょう工場」と呼ばれている。設立から40年余りが過ぎた今、周辺地域には有機農業が広く根付き、新規就農する多くの若者たちも集まることから「有機農業のメッカ」とも呼ばれている。
横堀鉄塔・案山子亭
当初の横風用滑走路予定地の真ん中にある横堀団結小屋。1977年、要塞建設のため穴堀りを始めるが用地内のため中止。要塞はB滑走路アプローチエリアに移して建設され開港阻止闘争では激しい攻防が行われた。1986年二期工事監視用塔として反対同盟が鉄塔を建設。高さ30メートルあったが、安全のため2017年に上部を撤去した。
案山子亭(かかしてい)は、農作業の休憩場所として1988年に建てられた。鉄塔下にあるのは、沖縄の彫刻家、金城実さんが作った「抗議する農民」像。岩山大鉄塔、労農合宿所を経て、横堀鉄塔に置かれた。管制塔占拠闘争で逮捕され、長期拘留による精神的苦痛を受け、1982年自死した原勲さんの墓があり、毎年4月には墓参と花見が行われている。
日本ではベトナム反戦運動が高揚していた。日米安保体制に対する闘いが展開されていた。若者たちは社会を支えることを否定し、大学闘争、街頭闘争、平和運動を取り組んでいた。私は中国の青年たちのように千葉の農村に入っていった。1971年、強制代執行の年で厳しい闘いの真っ最中でもあった。
70年代は、日本各地で公害問題が起きていた。農民にとっては、農薬と化学肥料の問題があった。水俣公害は、農薬と化学肥料を作っていく過程で廃棄し起きた。
三里塚の青年行動隊は、この問題を取り上げ、議論を深めていた。公害を生み出す農薬と化学肥料をつかうべきなのかとアプローチしていった。水俣の人達のチッソ会社へ抗議し、三里塚に応援にも来た。交流が深められていった。
その結果、「三里塚の百姓は近代合理主義の象徴ともいえるような空港、航空産業に対して闘いをいどんでいるが、農薬と化学肥料を使う近代農法でいいのか」と問いかけた。
やがて微生物農法による自主耕作運動の取り組みを開始していった。すでに茨城の大規模開発に反対する農民たちが微生物農法によってある程度の成功を収めていた。この闘いに学び1972年ごろから微生物農法、すなわち有機農法の取り組みを始めた。
その後、残念なことに反対同盟は、1983年3月8日に熱田派、北原派に分裂した。さらに北原派から小川派に分裂した。最後まで闘いを続けた農民は、有機農法に帰結した人達が闘いを続けている。
今日、平和を願うパレスチナとイスラエルの女たちを囲む集いが東京であり、出かけた。イスラエルにもアメリカにも、パレスチナ自治政府にも、パレスチナの人々の悲しみ、苦しみを解決し、暴力が暴力を生む絶望の連鎖を断ち切る力はない、第三の道を探そうと女たちは訴えた。
ちょうど70年代のベトナム反戦闘争と三里塚闘争の結合をめざしたように。
先日、イスラエルとパレスチナの二人の女性が来日し、ささやかな交流会が行われました。二人は、成田空港に着いてそのまますぐに三里塚を訪れ、石井紀子さんや柳川泰子さんの話を聞いたのです。そこで彼女たちは、国家の暴力によって、農民が土地を追われ、暮らしを破壊される現実にパレスチナとの共通性を見たと語りました。彼女たちは、空港から直接東京に向かった大多数の人にはわからない「もう一つの日本」を見ることができた、と言いました。
経済的要求が通ると村の中にもぐって静まり返ってしまうというのが、これまでの多くの百姓一揆の姿であったのである。
その中に突然花咲いたのが秩父コミューンであった。秩父コミューンは今日「秩父一揆」と言われず、「秩父事件」と言われているのは、経済的要求を突き抜け政治的要求まで行ったからであろう。
三里塚闘争は、現代の「秩父事件」かどうかは知らないが、土着的にまじめに闘争に向き合う時、「秩父事件」や「谷中村事件」がそうであるように、「国家や公共のために、住民が常に泣き寝入りさせられてきた」(戸村一作)ことを自分のものとすることができるに違いない。
私は三里塚のため何もできないが、連帯の気持だけは持ち続けたいと思っている。
公共性とは何かということが大きな争点になっているのだ。国家だけが公共性を定義したり独占することはもはや許されなくなり、市民や住民が「もうひとつの公共性」を立ちあげつつある。
一言でいえば、民主主義の不在である。これに対して敢然と異議申し立てをしたのが、三里塚の農民である。農民とそれを支援する人びとの身体を張った命がけの闘争こそが、民主主義を取りもどすことの重要性を浮きぼりにした。この頑強な抵抗があったればこそ、政府も各地の公共事業を力づくで強行することに躊躇しはじめ、住民参加による計画決定を言いだしてきたのだ。そして、三里塚の闘争は、政府が居丈高にふりかざした公共性に対して、何が真の公共性なのかということを真っ向から提起した。石井武さんが当時主張した「空港を作るのが公共なのか、それとも生命を支える食糧を作るのが公共なのか」という問いかけは、今にいたるも新鮮である。
政府が持ちだした公共性の中身は、おそろしく貧しい。
想像力のカケラもない人たちには、一日でもいいから直下で暮らしてみてほしい。それでも間違っていないと言えるのだろうか。
「成田空港の暫定滑走路の供用中止を訴える運動の呼びかけ」に賛同します。
東峰部落をはじめ、現地でくらしている人たちの頭上わずか40メートルのところに、ジェット機を飛ばすなどという、政府・公団の暴挙を許すことはできません。
三里塚空港の廃港をめざし、30年以上にわたって闘いつづける三里塚農民を支持します。
しかし、今の私には、賛同・支持を表明することはできても、そのために、何も有効な行動ができず、残念でなりません。
森にゴミを捨てるのも、遠い地に爆弾を落とすのも、山を削って滑走路をつくるのも、見ようとしないからできること。見ればわかります。
東峰部落は、ここ三年来の暫定滑走路建設工事のなかで、フェンスや道路によって村のなかが幾重にも分断され、道路も付け替えられてきた。ときおり訪れるものにとっては、それまで何回もごく普通に訪れていた村への入り口にたどり着くことすら困難で、迷いこんでしまうことにもなりかねない。
私にとって三里塚での体験は、風景の変容の一端をただ見てきただけでない。やぐらや要塞をたて、要塞と地下通路にこもり、その結果一年間の拘置所暮らしをし、ステージをつくり、ツアーでガイドをして、農作業をし、酒を飲み、何人もの人々と話し、気まずい緊張感も実感し、機動隊から露骨に恫喝されたことなど、いくつもの記憶が交錯し重なりあっている。その痕跡は、まだ三里塚の地に残されているが、それ自体は、時間と出来事の推移のなかで消え去っていくものかもしれない。それでも三里塚での体験が、いま現在の私を刺激する記憶としてあり続けるかぎり、抹消されることのない風景と人々の存在は、私自身を突き動かすものとして存在しているのではないだろうか。
過去への郷愁に引かれる支援者としてではなく、自分と他者が共有できるたたかいの現在の根拠を求めて、三里塚との関わりもまだ続いていくだろう。
いつぶつかってくるのか、鼓膜が破れてしまうような轟音になんか慣れるはずはありません。そして、轟音による振動、誘導灯の灯りなどが、人々の健康に良いはずもありません。
有機農業への転換直後ですから、ほんとにレースのようなキャベツが届きました。農法転換による病害虫や生育の状況、そして労働力も、農薬や化学肥料使用の農業とは大へんな違いがあることは私には考え及ばないことでした。レースのようなキャベツが届いて始めて知ったことです。
http://www.jca.apc.org/~misatoya/narita/genjitsu.html#00
36年にわたる空港反対闘争で状況が厳しくなるたび見た、あの明るさです。
一戸一戸に消費者・支援のグループがあり、多様な関係が今も発展を続けているようです。
私有地というのは一人一人に国が持ってもいいというふうに、私たちが私有地として耕作する権利
国土交通省と空港公団は無理に無理を重ねて暫定滑走路の供用に漕ぎつけようとしてきたが、その最たるものは東峰神社の樹木の伐採除去だった。東峰神社は東峰区民全体の入会的な所有であり村の鎮守だが、その社殿を囲っていた杉などの樹木が、航空法で設置が義務付けられている着陸機の安全確保のための進入表面を、5メートルほど突き抜ける状態になっていた。そこで空港公団は神社敷地の仮の名義人から登記簿上の所有権を売買により取得し、窃取した土地所有名義を唯一の根拠として、樹木は土地の付属物という論拠で伐採した。本来、神社林を進入表面の下に収めるように滑走路の端を北にずらすべきだが、それでは滑走路の長さが確保できない。2180メートルの滑走路を計画したときから神社林の不法伐採は強行突破する予定だった。
そしてついに2001年6月16日東峰区民(氏子)には何の連絡もなしに杉・桜・竹林など根こそぎ伐採・除去した。
人権よりグローバル化が大切
傾向③ 旧「大東亜共栄圏」をカバー
これも滑走路の短さから自明だが、暫定滑走路に離着陸する便の区間はかつての大東亜共栄圏地域にほぼ限定されている。日本本土からの航空作戦可能地域全般を暫定滑走路発着機はカバーするということで、周辺事態法、および現在準備されている「有事法」の趣旨に沿った出兵用滑走路として使用される危険はきわめて大である。
傾向④ 新規開設便の多くは旧社会主義国に割り振られた
暫定滑走路に新規参入する目玉ラインは、ベトナム航空ホーチミン(旧サイゴン)便、ハノイ便、モンゴル航空ウランバートル便、中国各社の北京その他便だ。一概には言えないが、ベトナム、モンゴルは日本観光客の海外旅行先としては、それほどポピュラーでなく、その理由はふたつ、ひとつは便数が少なく不便であり旅行費用が高かったこと、もうひとつは旧社会主義国であることだ。資本主義世界の論理からすれば「遅れてきた」これら諸国に金満日本が東京圏乗り入れを許可したということ。
傾向⑤ 東アジア便を無理やり割り振る
確定的ではないが従来のA滑走路離発着便のうち東アジア便を全部暫定滑走路に移しているきらいがある。空港需要増大にともなう拡充、という公団の言い方に従うなら、空いたA滑走路には北米便、欧州便などが増便されるはずだが、その兆候はない。昨年九・一一ショックは抜きがたく、北米便、欧州便需要が近々に増えるとは考えにくい。とすると、この措置はひとえに東峰(横堀)住民を爆音で立ち退かせるためだけの措置ということになる。
傾向⑥ 台湾便の新規、および増便
これまで羽田を使っていた中華航空(台湾)台北便五便が移ることをはじめ、他社の台北、高雄便が暫定滑走路を使用することになった。中華人民共和国の各社も暫定滑走路を使うことになっていて、北京、台北両政府系が暫定滑走路でかちあう。これは一九七二年「日中国交正常化」以来のことだ(成田開港以来、中国はひとつ原則に基づき、成田使用は北京政府にのみ認められてきた)。この意味することは不明だが、中国、台湾両政府が歩み寄った結果、と解釈することは早計だ。ブッシュ「悪の枢軸論」のごとく米国は中国敵視、親台湾色を強めており、暫定滑走路への双方謔闢�黷ヘ、ブッシュ路線に従う両政権離反策の一環である可能性がある。
現段階の結論的見解―アジアへの旅行者を東峰・横堀住民追い出しに動員することは許せない!
私は成田空港存在そのものに反対だが、日本民衆がアジアに出かけること自体に反対ではない。買い物とか物見遊山がほとんどだろうが、日本の庶民がアジアの人々の暮らしぶりを我が目で見、実感し、ついでにお金をアジアで使ってくることは、お互いに悪いことではないと考えている。
しかし、目下のところアジア便のほとんどが暫定滑走路発着に割り振られようとしており、アジアに出かける観光客が東峰、横堀住民の頭上を飛んでいくとなれば性格が変わる。戦術的期待は大きくないが、日本の民衆に暫定滑走路発着アジア便ボイコットを呼びかける方法を考える必要があると思う。
ここにもう一つのやり方(オルタナティブ)がある。
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