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意味がありすぎる無意味な言葉

3月12日(火)

 結葵(ゆうき)と申します。

やりたいことを粛々と、訳の分からなさに悶々と、向き合わないことに堂々と。



 「コミュニケーション能力」なる言葉は一体何を語ってくれるのだろうか。

 高校生くらいのときからかな……「コミュ力」「コミュ障」という言葉が盛んに会話のなかで頻繁に登場するようになった(という曖昧な)記憶があるが、世間一般的にはそれよりもっと前から、すでにこの言葉は使われ始めていただろう。

 僕が知るかぎりでも、この「コミュニケーション能力」なる言葉の使用は1970年代にまで遡ることができる。どんな文脈かというと「英語教育」だ。
 今でこそ、「話せる英語」だとか「英語を通じたコミュニケーション能力の育成」などという根拠に乏しい(ふざけた)言説が罷り通っているが、まさしく1970年代に行われた英語教育改革が、現在にまで通ずる「実用的なコミュニケーション能力の育成」における転換点だった。


 1970年代はどんな時代だったか。70年代、80年代の日本というのは、殊更に元気モリモリだった、僕にはそういうイメージがある。
 高度経済成長を順調に遂げてきた日本。64年にオリンピックが開催され、海外旅行が自由化した。そこからは海外旅行が一大ブームとなり、また70年には(今でこそ評判が悪いが)大阪万国博覧会が開かれた。企業も続々と海外進出し、まさに「国際化」という言葉が時代の象徴となった。

 この「国際化」の波が、英語教育の領域にも押し寄せた。

一九七一年六月には中央教育審議会(中教審)が、日本の外国語教育は「意志の疎通を円滑に行う能力の育成に欠ける時間が多かった。(中略)そこに重点をおいて充実をはかる必要がある」と答申している。「意志の疎通」=コミュニケーション能力の育成を中教審答申として初めて明確に打ち出したのである。

江利川春雄『英語教育論争史』講談社選書メチエ pp.182


 そもそも「コミュニケーション」は「能力」なのか。 

 上では「意志の疎通 = コミュニケーション能力」となっているが、意志の疎通には能力が必要なのか。だとしたら、その能力とは何だ。先天的に宿っているものなのか、後天的に獲得するものなのか。いつ獲得するのか。自発的に獲得するものなのか、他者からその何たるかを教わり、獲得するまでに練習が必要なのか。われわれはこの「能力」という単語に、どういった意味を与えているのか。

 さらに言えば「コミュニケーション」とは(それが意志の疎通であるとしても)、ふたり以上の人間によって営まれる行為のはずだろう。自分ひとりが存在しているだけなのであれば、コミュニケーションは成立しようがない。
 にもかかわらず、「能力」というのは、必ずしも複数の存在を必要としない、(やろうと思えば)ひとりだろうと習得できる、そういうことを暗示させる単語である。例えば「判断能力」は、決して他人の力を借りなければ習得できないものではない。

(前略)たとえば就職活動の場面などで「コミュニケーション能力が大切だ」と言われるとき、(…)「空気を読んでうまくノッて話す」という実に独特のイメージがいま、「コミュニケーション」という言葉に付与されている。

千葉雅也・國分功一郎『言語が消滅する前に』幻冬舎新書 pp.92

いまでは、クローズドコミュニティの中でのノリにうまく乗れているとコミュニケーションが成功していると言われ、乗れていないとコミュニケーションの障害を持っていると言われる。(…)このイメージ転換をもたらした何らかの力によって、今日、「コミュ障」という言葉が異常なまでに普及するに至っている

同上, pp.93

(コミュニケーションの)ムラ的なものが強まる形になり、過剰に空気を読み合う状況を生み出し、その中でいかにコミュニケーション付加価値みたいなものをアピールできるかの競争、コミュニケーション資本主義の競争が強まっていき、そこにうまく乗れないケースが「障害」として発見されていく。

同上, pp.94


 奇しくも、今日、となりに座っていた女性が読んでいた本が『自分の気持ちをきちんと〈伝える〉技術 —人間関係がラクになる自己カウンセリングのすすめ』というタイトルだった。チラ見してごめんなさい。

 「自分の気持ちをきちんと〈伝える〉」つまり「意志の疎通」である。そもそもコミュニケーションというのは、少なくともふたりの人間の間で行われる総合的な営みであるのに、彼女はそれがあたかも自分個人の問題であるかのように捉えてしまっている(のかもしれない)。自分の伝え方が悪い、相手に誤解を与えてしまう、相手に自分の(言いたい)ことをわかってほしい、そのための「技術」を学ぶ必要がある、と。

 加えて「自己カウンセリング」をも勧めてくるのである。「本書は理解できないのは自分のせいでも、相手のせいでもなく、それは当たり前だと気づかせてくれます」と紹介文には書かれてある。それでも「自己カウンセリング」と言うのは、結局は、見直すべきは自分で、他人から認められてほしければ徹底した努力と自己管理を惜しむことなかれと暗に言っているようなものではないか。


 個人の問題でないものが、個人の責任として還元されている。

 酷いもんだ。コミュニケーションの問題が個人の能力や技術の不足の問題として責任転嫁され、それが果たせなければ「障害」というレッテルを貼られる。
 明確に定義もされていない非常に曖昧で抽象的な言葉に振り回されて、「コミュ力が高い」から就活で有利だとか、若者の「コミュ力の低さ」が問題視されているとか言うのである。

 いや、明確に定義もされていない非常に曖昧で抽象的な言葉「だからこそ」なのかもしれない。解釈の自由度が高いので好都合だ。自分の好きなように操ればいい。
 言葉に意味がありすぎる。われわれは「コミュニケーション能力」なる言葉を聞くとき、あるいは使うとき、実にさまざまな概念やイメージを頭に浮かべる。多義的とも言えない、もっと無秩序に乱立したイメージの総体。多義的とはさまざまな「意義」が並列することを言うが、しかしながら同時にそれらは明示的かつ明瞭である。言葉に意味がありすぎる。それは意味を成した言葉すなわち、シニフィアンではない。記号的だが、一対一に定まることは決してなく、無秩序に乱立している。この、何を言っているのかさっぱり分からない感そのものがあの言葉の正体ではないか。

 言葉に意味がありすぎるがゆえに、人は意味も分からずあの言葉を使っている。けれども同時に、あるいはだからこそ、人はいちいち意味を規定しなくてもあの言葉を使いながらやり取りすることが可能なのだ。もっともらしく語るための便利なタームである。

 重要なのは、この訳の分からなさそのものを体現する「コミュニケーション能力」という言葉の意味や定義を規定し、共通の認識にすることに心血を注ぐことではない。そうやって規定しようとすること自体、訳の分からないものを手におえなくするだけである。結局、誰が言い出したのかも分からないこの「コミュ力」などという言葉が世間に広まり、これだけ人の生を陥れ、混乱させた責任は誰ひとり取らないのだから。
 むしろ、もう徹底的に付き合わない。コミュ力がどうのこうの、コミュケーション能力をつけるためにはどうのこうのと御託を並べ立てている奴や、いつまで経ってもウジウジ悩んでいる奴を心底鬱陶しいと(図らずも)感じてしまうのと同じである。どれだけ社会規範として、あるいは一部の人間が誤用する「常識」としてそれが大切だと力説されようとも、金輪際これを無視するつもりでいることだ。

 望まない訳の分からなさに悶々とするくらいなら、自ら望む訳の分からなさ、複雑さ、難しさ、すなわち自分のやりたいこと、やるべきことに悶々としたほうが健康にもいい。

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