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ブロッコリーを傘にする女 #同じテーマで小説を書こう

不機嫌そうに重なった雲が一面に広がっている。そろそろ梅雨がやってくるとテレビは告げていた。それとは反対に、押し寄せる波は穏やかで、そそくさと去っていく。太陽はあとどのくらいで沈むだろうか。砂浜に、二人きり。

ドサ、と大学の研究室から持ってきた本の入ったカバンを砂浜に投げた。私は靴を脱いで、足を水にひたした。「けっこう冷たい」はしゃぐ私を、ウミは笑って見ている。「ここに来るの、去年の秋以来かな。ほら、戻っておいで」彼は砂浜から手を差し伸べた。細くて弱々しい腕だ。私は彼のもとへ戻る。

「私、ここ大好き。この世界には、ウミと私だけしかいないような気分になるから」
「ミドリはそれで寂しくないの?」彼は私の手を握っている。「ウミがいるから大丈夫」それを聞いて、ウミは悲しそうな顔をした。彼は何も言わず頷いた。風が二人の髪を揺らし、表情が隠れる。「どうしたの?」
「ミドリ。もう、“その日”が近づいてるみたいだ」

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中学二年生になった春、ウミは遠くから転校してきた。といっても隣のクラスだった彼との接点はなく、顔さえぼんやりとしか知らなかった。ある日、掃除の時間に友人のユウコがささやき声で言った。「ミドリ、知ってる?一組の転校生の話」
「ウミくん、だっけ。なに、誰かフラれたの?」
「いや、違うと思う。たぶん」
「たぶん?」箒を動かしていた手が止まる。行き場をなくした埃が右往左往している。「なんか、彼と話してたミカが突然泣き出しちゃったの。この前のことなんだけど。それで周りにいた子たちが彼を問い詰めたら、ミカが違うって。なんにもひどいことしてないって。急に、小さい頃飼ってたペットが死んじゃった時のこと思い出して、涙が止まらなくなったんだ、なんて言ってたらしいのよ」えーなにそれ、と私が胡散臭そうに眼を細めていると、「ケイタのやつもさあ」と盗み聞きしていたらしいユウスケが割り込んできた。
「勝手に入ってこないでよ」と、ユウコ。「いいだろ別に。でな、休みの日にあいつと遊んでたらしいんだけど、会った時からどんどんどんどん気分が落ち込んでいっちゃったんだって。ケイタも転校生のやつになんかされたわけじゃないんだけど、悲しくて声が震えるくらいになって、ものの三十分でお開きになったらしいぜ」

雨粒が窓をたたく。彼らは中に入りたがっているみたいだ。薄暗い図書室。人の気配がしない放課後のこの空間は、時が止まってしまったみたいで好きだ。かび臭い本を取り出して席へと向かう。

あ。例の転校生。表紙は下を向いていて何かはわからないが、分厚い本を読んでいた。私は彼の顔が斜め右に見える位置に腰をおろした。透き通るような黒目が、丁寧に文字を追っていた。止まない雨の音。それだけが部屋の中に響いていた。

「悲しくならないの?」彼は言った。私があくびをした時だった。「どういうこと」
「僕の近くにいると、みんなおかしくなっちゃうんだ。聞いたことあるでしょ。涙が止まらなくなる人もいる。最後は、いつもひとり。君はなんともないの?」
「別になんとも。それより今日の晩ご飯のことで頭がいっぱいなの。この時間ってお腹が空いちゃうし。あなたもそうでしょ」彼はそれを聞いて、声を出して笑った。耳当てのように暖かな聞き心地だ。

「生まれつき、そういう病気なんだ」
「他人をどうしようもなく悲しくさせちゃう病気?」
「うん。これはあくまで予兆みたいなものなんだけど」

音はすべて、どこかに消え去っていた。「一緒に帰りましょうよ。雨止んだし」
「そうだね」それから私たちは、ゆっくりと恋に落ちていった。

ーーーーー

植物病。身体が植物になってしまう病気。まだあまり知られていないが、近年、少しずつ患者の数が増えているらしい。身体の一部が植物化する例が多いが、全身が植物になってしまう場合もあるそうだ。何の植物に変化してしまうかはわからないらしい。植物病の患者は生まれつき遺伝子に異常があるという。そして彼らの多くは二十台で植物化する。

「植物になっちゃった人はどこに行くの?」
「施設に行く。そこにみんな集まっている。植物園みたいなところさ」
「きっとみんな美しい姿をしていると思う。ここみたいに」私たちは街のはずれの水族館に来ていた。青白い光の線が暗闇に寄り添う空間。魚たちはそこで必死に生きているように見える。私たちは手をつなぎ、色の境界が曖昧なこの世界に身をゆだねていた。

「初めてウミに会った時ね、私もみんなと同じで、辛いこと、頭、浮かんでた」患者のすべてではないが、植物病の人にはそういう力があるらしい。周囲の人間に何かしらの影響を及ぼす、説明のできない力が。「小学生の頃、弟を交通事故で亡くしたの。突然あの子は奪われた。あなたと一緒にいて、最期に見たあの子の顔が思い出された」
「知らなかった」
「最初はうんと悲しくなった。でも少しだけだったの。また弟に会えた気がして。私が本当に悲しいのは、弟の記憶が風化して思い出せなくなっちゃうことなんだって。だから嬉しかった」
「ミドリはほんとに不思議だよ」ウミは握っていた手に力を込める。それから私を抱き寄せた。水族館の暗闇に溶けるように私たちは抱き合った。

ーーーーー

私は車いすに座るウミと、あの砂浜に来ていた。彼はもう歩けなくなっていた。今日も太陽の光は見えなくて、泣き出しそうな雲が空を埋め尽くしている。眼前の海はどこまでも広がっている。

「結構疲れたよ。車いす押すのって大変なんだね」
「あはは。ありがとう」ウミは元気そうだ。彼は最近急激に太りだした。それは植物化の準備なのかも、と私は思った。ウミはここに来たいと、突然言い出したのだ。雨が降る前にどうしてもここの景色を見たい、と。風はなく、海鳥が遠くで鳴く声が聞こえる。

ウミは座ったまま、まっすぐに水平線を見つめている。それから彼は眼をゆっくり閉じた。「僕、やっぱり行きたくないな」
「植物園?」
「うん。一生をそこで過ごすかもしれないし、ミドリとも会えなくなるかもしれない」
「水やりに行ってあげる。あげすぎて枯らしちゃったらごめんね」なおさら行きたくないなあ、と彼は困った顔をした。私はその眉にキスしたくなった。

「ねえ、ミドリ。いろいろ言いたいことがあったんだけど。だけど、今すごく眠たいんだ。とても気持ちがいい。僕の肩に手を置いてくれないか」
「ウミ?」私が肩に手を置いた時には、彼はすでに眠りに落ちていた。「ウミ。ウミってば」私は泣き出しそうだった。心の中から溢れる上昇気流で頭がいっぱいになり、もうそれを抑えられない。ウミは寝息を立てて動かない。「ウミ!」涙が彼のひざに落ちた。

雷が鳴った。それを合図にシャワーのような雨が辺りを濡らした。私の涙も一緒に海へと流れていく。髪がまとまって、ウミの顔に張り付いている。彼はそれでも幸せそうな顔をしている。視界が真っ白になる。何も聞こえなくなった。

彼は大きな木のようになった。幹は薄い黄緑色。葉の部分はひとつひとつが緑色のつぼみのようになっている。それはブロッコリーのようにも見える。まるで昔からここに生えていたかのように、すっぽりと私を覆っている。彼が雨から守ってくれているのだ、と私は幹に額をあてた。血が流れているかのように暖かかった。「ウミ。とても綺麗だよ」

私は大きな木の下で泣き崩れた。いつまでも、いつまでも涙を流した。

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