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実践的デペイズマン
ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスの散文詩「マルドロールの歌」に登場する、「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい」という語句は、シュルレアリスムを象徴する言葉として知られています。
同じことを立体作品として行ったのがマルセル・デュシャンの「泉」で、便器という実用性を持つものを、その機能を剥ぎ取りオブジェとして美術館の中に配置することで、デペイズマン=異化効果を狙った訳です。
私は小学生の頃、百科事典の巻末に載っていたシュルレアリスムの作品に魅せられ、自分でも何とか再現しようと、新聞の折り込み広告から写真を切り取り、頭が魚で下半身が人間という、マグリットの絵から抜け出したかのようなコラージュなどを作っていました。
傍目には子供の遊びですが、自分では作品を作っているつもりでいたと思います。
コラージュ好きは長じても変わらず、高校の卒業文集の自分のクラスの表紙を、美術部の親友と共に作成したのですが、中央に親友の描いた担任のモナリザ風肖像画を配置し、周囲はアングラ演劇のチラシから切り取った素材を組み合わせ、コラージュしました。
最近は3次元のコラージュといえるアッサンブラージュにより興味があり、たまに作品を作っています。
上の画像はつい最近、ギャラリー幻のクトゥルフ神話作品展に出展したミ=ゴの標本作品。
手元にある素材を如何に組み合わせるか、が思案のしどころであり、楽しいのです。
考えてみれば、すべての創造行為はデペイズマンの応用と言えるかも知れません。
何と言っても古代ギリシアを規範とする古典的な美は2000年以上前に確立してしまったのですから、後はそれを如何にアレンジするか、でしか新奇の美は生み出せない訳です。
今世紀にはとうとう美術はサンプリング・カットアップ・リミックスが王道と言える程になってしまいました。
ここ一年程経営者や、各分野のプロフェッショナルのお話を伺う機会が増えましたが、皆さんに共通しているのが、目の付けどころの鋭さと発想の転換、熱意を伴う行動力だという気がします。
このうち最初の二つは、デペイズマンの手法と一緒です。
事務所のワークショップで講師の先生が、ある俳優の凄さを説明するのに、妻との気まずい話し合いのシーンでペットボトルを弄り、キャップを開けるのだけど飲まずにテーブルに置く、という演技を挙げていました。
こういう場で人間が無意識に取るであろう行動を意図的に取り入れた目の付けどころと、キャップを開ければ当然次は飲むであろうところを飲まずに下に置く、という発想の転換が演技に生きている、ということです。
もう一つ例を挙げると、最近「パン好きの聖地」と呼ばれているという、松戸のZopfというパン屋についての記事を読みました。
このパン屋、松戸駅から車で10分というアクセスの悪さにもかかわらず、遠方からのお客で行列が途切れない程の人気ぶりだそう。
しかしやっていることは、マーケティングのセオリー「外から商品が見える」「商品を絞る」「ピークタイムを作る」とは真逆で、中が見えず何の店か分からない、商品は常時300種類ほど、常にピークタイム、だそう。
つまりは発想の転換です。
でも、何故そうしているかと言えば、何も奇を衒っている訳ではなく、品質を保つ為、ひいては美味しいパンを食べて欲しい、という熱意が何物にも勝っているからなのです。
オカルティズムやグロテスクなど、本来の意味から離れて忌避すべきもののような扱いをされているものの尊厳を取り戻したい、と願っている私ですが、シュルレアリスムについても同様で、その有用性がもっと世の中に広まって欲しいな、と思うのです。
※お気づきかと思いますが、先日のお題の⑤日常のシュルレアリスムのタイトルを変更して書いた記事です。
当初書こうと思ってた内容はだいぶ忘れてしまいましたが・・・。
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