波音の思い出
『もし別れた後、街でばったり出会ったらどうする?』そう問いかけた彼女は、突然、私の前から消えた。 そして彼女の息遣いを感じたのは、偶然訪れたカフェだった――変わったものと変わらないもの。彼女の波音のような記憶が蘇る、過去と現在をつなぐ短編ラブストーリー
波音の思い出
火照った体を冷ますため、ベランダに出て月を見上げている。バスローブをまとった彼女が隣にきた。腰に手をまわしてくる。僕も彼女の細い腰に手をまわし抱き寄せた。彼女の長い髪がさらりと腕を撫でてくる。
彼女が話しかけてきた。その目は月を見上げたままだ。
「もしも別れたとして、その後ばったり街で出会ったらどうする?」
僕は少し考えたふりをして、ゆっくりと口を開いた。
「笑顔で久しぶりって言うかな」
僕がそう言うと彼女は
「じゃあ私は気づかないふりをしてあげる」いたずらっぽくそう言った。
あの頃はただの冗談めいた会話だったはずが、今思えば、その会話は胸に沈み込む重い碇のようだ。
彼女はとりあえず気づかないふりをするのか……
それは裏を返せば見つけて欲しいということなのかもしれない……
でも僕って、ド近眼だから多分見つけられないだろうな、彼女の方で見つけてもらわないと……
しかし、目が悪くても彼女が近くにいれば必ず彼女を見つけることができると確信があった。たとえ、彼女が一言も発さなくとも……
それから、道を埋め尽くした黄色いイチョウの葉っぱが冷たい雨で茶色く変色した頃、彼女は行き先も告げず、僕の前から姿を消した。
僕は彼女との思い出の場所を当てもなくうろついてみたが、気配さえ感じることができなかった……
また夏が巡ってきた。
zuzuzuzzz-zuzu-、zuzuzuzzz-zuzu-、zuzuzuzzz-zuzu-
寄せては引くさざ波のような息遣いが僕の耳に飛び込んできた。
それはプレゼンの資料をノートパソコンで確認するため、午前中の早い時間に営業先近くのファミレスに入ったときのことだ。室内はまだ客の入りも少なく、静かであった。僕は製薬会社に勤めていて病院を回り、新薬の情報を医師や薬剤師に提供する、いわゆるプロパーと呼ばれる仕事をしている。
その息遣いは僕の後ろの席の方から聞こえてきた。
彼女の息遣いは独特だった。もともと小顔で華奢な顎をしていた。そして片方だけ親知らずを抜いた影響で、右側の鼻中隔がわずかに狭くなっている。
そのせいで、彼女の息遣いには寄せては返す波音のような、その流れに時折、貝殻が引っかかるような雑音が混じるのだった。
僕は冷静さを装い、プレゼンの資料に集中しようとした。
(この度、当社が開発した新薬「〇〇」は、現在の治療法における課題を解決し………)
だめだ、全くプレゼンの内容が頭に入ってこない。
ついに我慢できず、スマホを見る素振りで自分の後ろをスマホに映し出した。
スマホの画面に映っている女性は痩せていた。季節外れのニット帽を深くかぶり、髪は隠れているのか見えない。透き通るほど白い肌は美しいというより、どこか病的な印象を与える。いくら独特な息遣いを聞いても、それが彼女だと僕には確信できなかった。
彼女は若い男と話していた。その声も彼女の声とは違っているように思えた。彼女の声は何と言うか、もっと鼻にかかったハスキーな感じだったと思うのだが……
しばらくして若い男が彼女に言った。
「姉貴、じゃあ俺先帰るから……」
そのファミレスは営業に行く予定であった病院の近く、小高い丘の上に建っていた。窓際の席で、若い男が帰った後も彼女は物憂げに外を眺めている。ぼんやりとした視線の先には、海沿いの街並み、青く広がる海と空、そして水平線から立ち上る白い雲が映っていた。独特な息遣いが静かな空間に微かに響き、その風景はどこか異国のもののように感じさせた。
僕は確信が持てなかった。けれど、あの独特な息遣いと顔立ちに、過去の記憶がすべて引き寄せられる感覚があった。
他愛もない会話を交わす時も、ドライブ中に助手席で物憂げに窓の外を眺める時も、彼女の横顔に目を奪われた。夜の静寂の中、ベッドで触れた彼女の体温と共に刻まれた記憶が蘇る。その音は、穏やかな波が砂浜を撫で、引いてはまた寄せるようなリズムを持ち、耳に残る静かな調べだった。
僕はそっと自分の席を立つと後ろの席に回り込んだ。
緊張で動きがぎこちない。こわばった顔をして彼女の前に立つ。外を見ていた彼女の眼差しがゆっくりとこちらを見上げた。
「よくわかったわね」
彼女は秘密めいた微笑みを浮かべる。
「君の独特な息づかい、忘れるわけがない」僕はなんとか声を振り絞った。
「相変わらずの鼻フェチね」
そういう彼女の声も以前のハスキーな響きから一変し、どこか透き通った声色に変わっていた。
「今、近くの病院に入院しているの。だいぶ良くなったから、今日は外出許可をもらってここまで来たのよ」と彼女は話した。
「で、長年悩んでた鼻中隔もついでに手術で広げたの。これで普通に息ができるようになったわ」そう誇らしげに言う。
けれど、僕の耳に届く彼女の息遣いは、以前と同じだった。あの独特な、鼻に引っかかるような音。手術を受けたと言っていたのに、どうしてだろう……そんな疑問が頭をよぎる。
ふと、彼女が言った言葉を思い出した。
(じゃあ、私は気づかないふりをしてあげる)
彼女はいたずらっぽく僕に微笑みかけた
「久しぶりだね、奈美」
知らないうちに僕の口元からは笑みが漏れていた。そしてゆっくりと彼女の前に座った。