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背に沿って島、落ちる貝

 貝の背中。

 ランゲルハンス島みたいだな。ランゲルハンス島って知ってる?
 海に浮かぶ島の話じゃなくて?

 その島の話じゃなくて。

 きみが海の話をすると、エミは僅かにからだを硬くするのが分かる。エミは海を知らない。エミは野原も知らない。エミは自然観察の歓びを知らない。エミが好きなのは碧空だけなのかも知れない。ふたりで道を歩いていくと、エミはスマートフォンで何枚も空と雲の写真を撮った。


「空と雲」

 と、きみが云うと、エミはいつか訂正してきたことがある。


「私が撮りたいのは、光なんだよ」


 エミときみは寝台に寝そべって、きみはエミの裸の背中をそっと触っていた。色んなところを触ったりからだに入れたりしたら、エミのからだは壊れてしまうような感覚があった。いやそれより以前に、エミがもう心を開いてくれないような感覚があった。きみはエミに入れるようなものは持っていない。指だけだ。ふたりを関係するのは指だけだった。エミもきみも、プラスティックやそういう道具は好きではなかった。


「痣があるよ」

「大きな痣? どんな色?」


 エミは眠そうな声で、振り向かずに答える。


「大きくは無いけど、──幾つもあって……怪我したの?」

「怪我なんてしてないよ。発疹が出てるの?」

「痣だよ。触ってるけど、痛い?」

「痛いなんて感覚、もう全然思い出せないな」


 その痣の散らばりは、エミの綺麗な白い背中に乱れる貝楼諸島のように見えた。試しに人差し指だけでそうっと撫ぜると、白くて薄い貝殻がするりと痣から溢れ、痣は消えた。


「え、何しているの?」


 エミが狼狽しているのが分かる。それでも振り向かず、うつ伏せのままでいる。きみは興味を持って、幾つもの痣を指先で撫ぜ、その痣から貝を拾うことに成功していった。

 すべての痣を消してやろうと思ったけれど、それは上手くいかない。すべての痣が消えたら、エミは癒されるのかどうか、分からない。エミが話し出した。

「身体にはね、島があるのよ。知ってる?」

「エミ、貝楼諸島のこと知ってるの?」

「何それ。……ランゲルハンス島の話だよ。膵臓の中に島状に散在していく細胞群を、ランゲルハンス島って云うの」

「膵臓に島があるの?」

「島に喩えられて呼ばれているのよ。ねえ、お水のみたい」


 エミがやっと振り返った。シーツにくるまれていた裸体に、小さなブラだけ付ける。きみはペリエをエミに渡した。


「エミの背中の痣も、島が点在しているみたいだなって思って」

「この小さな貝、どうしたの?」

「痣を触ったら……」

 きみは告げるのを躊躇った。

「肌から剥がれた」

「私のこと、貝のある、諸島だって云いたいの?」

「……ねえ、この貝、少し貰っても良いかな」
「どうだろう」

 エミは良いとも悪いとも云わなかった。
 エミは人魚なんじゃないか、これは鱗か、鱗の残り香なんじゃないか、ときみは思ったけれど口にはしなかった。それをしたときエミが消えてしまうのが怖かったし、もしもエミが人魚だとしたら、口にしたときにそうなるのは必然だ。

 エミの白い足先を口に含む。エミの足は小さくて、少し曲がっている。生まれつきなの、エミは云う。子どもの頃、歩き方が変だっていじめられたけど、今はべつに平気。
 今はべつに平気。
 きみは、エミの痛ぶられている過去をそうっと撫でたいと思う。エミが色々なものを拒否する理由は、例えばそこにあったのではないかと、問い掛けることはしない。小指を舐めていると、エミが起き上がって、きみにキスして云った。

「可愛いんだね」
「さわっていい、」
「今日不正出血なんだよね」
「そっか」
「ごめん」
「いいよ、おなか痛い?」
「ごめんて」
「いいって」

 泣かないでよ。
 とは云わない。し、エミは泣いていない。泣いてしまいそうなのはきみなのかも知れない。


 女と海を繋げられるのが物凄く嫌なんだ。エミは云う。神秘的な生理も嫌、月の満ち引きの話も嫌。産む性に生まれたことが憎い。カルキのにおいも嫌い。若葉のにおい。命のにおいなんて知らない。怖くなるんだ。私をそんなもので捉えないで。……きっと、自然の無い場所で生まれたからなんだ、それだけなんだけど。エミは最後には自嘲する。きみはそんなエミのことがとても不憫だ。

 きみと抱き合うとき、からだから滲む水分にはきっと塩分があって、性器に滲むそれはにおいもあって、エミはからだを重ねるのは、大丈夫なのかな、ときみは不安になる。

 エミとふたりで篭っている部屋は、何処にでも行けそうな街の一角にあった筈だ。何処にでも行ける場所は、何処にも行けない場所だから、欲しくない。エミはそう呟いた。海の音が聞こえるような気がした。


 光のスケッチをしなさい。

 幼い子どもの頃は神様の声が聞こえた。

 光をスケッチしなさい。

 摑んだ掌のなかに、光は残らない。それでも、あの頃聞こえていた声は忘れられない。

 ここがあなたの云う貝楼諸島の島のひとつだったら、あなたは私と上手にからだを重ねられるのだろうか。私は全神経が翔ぶかのような性欲の果てに投げ出されて、泣きながらあなたに、抱いて欲しい、抱いて欲しい、と乞うことが出来るだろうか。まるで性癖を隠す理性を剥ぎ取られて。


 あなたが私の背中から落とし続ける貝殻、ガラスボトルに入れて蜃気楼を浮かべたら、明日あなたと私は海辺に行ってしまうのだろうか。エミは恐怖を覚え、そのガラスボトルに持っている真珠をひとつ、ひとつ、落として、愛してた、愛してる、愛してた、愛してる、と占いをするように妄想の世界で落とし続けた。愛してた、愛してる、愛してた、愛してる……。


 西日が部屋に差し込んでいた。きみは眠ってしまった。笑みを、浮かべる。それは誰のこと?

 目が覚めるときみは、また、エミの背中に触れていた。

 幾らでも貝を落としてあげるよ。エミは思った。窓の外、波の打ち寄せる音が聞こえるようで、必死に打ち消しながら。私が還る場所はそんなところではないし、私たちが孵った場所は、海ではないの。そんな人間でごめんね。昨日私、占いしてたよ。

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泉由良
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