神道の本義(J.W.T.メーソン)から見つけた神道的死生観
この度の台風と関係するのがしないのか、ここ2,3日の間に、死に関するニュースをいくつか見聞きした。
その時たまたま開いた、J.W.T.メーソンという学者さんの、神道について掘り下げた著書にこんな文章を見つけた。
『しかし神道においては、死は霊の消滅を意味しない。肉体の衰滅は、神霊が地上の活動のために、自己を人格化した肉体の形として保持してゆけなくなったことを示すものである。それはまた、肉体がもはや創造的活動のための十分な活力を維持することができなくなったので、生命を創造的進化の新しい実験に進ませるための準備でもある。』
肉体は地上の活動のために自己を人格化したもので、神霊が肉体という場を借りて(肉体という形で)生命の進化のために活動(創造的な活動)しているのだけれど、その創造的活動ができなくなると形が保持出来なくなる、すなわち肉体の衰滅に至る、と言っている。
「できなくなった」だけでなく「やり終えた」場合もありそうだけれど、とにかく、神霊の意思なり都合なりにより地上でのその人であった生は終了すると解釈できるのでは。
そして、
『神道は、地上の努力が終わったと同時に神霊も滅びるものだとは説かない。』
とはっきり行っている。
滅は次なる「新しい実験」のための準備期間に入るということでもあるという。
肉体的な別れはもちろん寂しいことだけれど、神道の死生観は、失や亡よりも「次なる世界に向けて」というより前向きな方向に目が向けられてて、悲壮感を感じない。
大きな喪失があって尚、前向きな視線を送れるのが、神道の、つまり日本人のカラッとした特色を作ってくれている気もする。
個人的に次なる新しい実験のための準備に入るという考え、感覚好きだ。
ジメっとしないでカラッとした死生観を持ち合わせている日本(人)的なこの感覚、好きだし、大事だって思う。
「ワタシは次の新しい段階に入るから」
「今の肉体でのお仕事は終わったから」
そんな霊魂の声が聞こえてきそうだ。