演出後記:暴力と知的好奇心
劇団ゆらじしゃく第六回公演『授業』
二〇二四年 七月 十四・十五日
阿佐ヶ谷シアターシャイン
無事、終演いたしました。
全6回公演で300人近い方にご観劇いただきました。
ご来場いただいた方々、応援札や差し入れでサポートしてくださった方々、本当にありがとうございました💐
皆様の感想、こちらでお待ちしております!
以下は、観てくれた方に向けた、演出の後書きです。
🔪 🔪 🔪
授業のラストシーンで、教授は「ナイフ」を取り出します。
それは実際のナイフではなく、目に見えないナイフです(脚本のト書きには、演出の意図によって実際のナイフでも目に見えないナイフでも良いと書かれています)。
この「ナイフ」とは何なのか。
怒りと支配欲が増した先にある「殺意」の象徴は理解できます。ナイフを見えないものにしたことで、「言葉の剣」= 武器を持たずとも、言葉だけで人を殺すことができる、の意味は自然と付与されました。不条理撃なので「急にわけわからん展開が起こる」と納得することもできます。
しかし、いずれも重心がふわっとしており、今回の演出におけるナイフシーンとは何なのか、ずっと考えていました。
本番直前、ようやく演出としての重心が定まったので、それを演出後記とさせていただきます。
授業をはじめに読んだ時、
「教授は私だ」と思いました。
しかし稽古を重ねていくうちに、「生徒も自分だ」と強く感じるようになりました。
それは、今回の女生徒役の二人が私の演出意図を理解し、女生徒を育ててくれたからです。
女生徒は、いかようにでも演じられる役です。シリアスにもコメディにも、馬鹿なようにも賢いようにも、純粋にも小賢しいようにも。
二人は、それぞれのやり方で「賢く、知的好奇心を持った少女」を演じてくれました。
それは先生の期待する「良い生徒」ではないかもしれないけれど、彼女は彼女のやり方で、世界を見ようと、知ろうとしていました。
教授の講義は、よく聞くと多くの矛盾を孕んでいます。きっと彼女はその矛盾に気がついていたことでしょう。
どんな知識も、確実な「正解」であることはあり得ません。全ての知識はいつか別の知識によって覆される可能性を秘めています。
何かを知ろうとするときに大切なのは、それが正しいか間違っているかは横に置いて、
まずは相手の話を受け入れることではないでしょうか。
勉強には二つの側面があります。
純粋に世界を知る喜び。
自分の正しさを証明するための武器。
教授の言語学の講義には鬼気迫るものがあります。
彼にとっての勉強も、決して自分の正しさを証明するためだけのものではなかったでしょう。
知的な喜びに触れ、その奥深さはまるで歌のように、彼の身体を震わせる感動をもたらしたはずです。
しかし彼はその知的喜びを積み重ねていくうちに、その知識を武器として使うようになっていった。
この教授のセリフからは、
自分の学問を理解しない連中が、なぜかお互いに理解し合い仲良くしている。(しかし俺とは仲良くしてくれないし、俺の話を聞いてもくれない)ことに対する孤独感、失望が見えてきます。
きっと彼も、「俺は正しい、お前は間違ってる」からはじまる悪意の連鎖に巻き込まれたことがあるのではないでしょうか。
激しい授業を繰り広げ、興奮状態に入った彼の脳は徐々に理性を失っていきます。
はじめは「言語」で説明しようとしていた言語学の理論は、
徐々に五感で感じるもの、音や動きによって説明するものに変わっていきます。
そして最後には、全く同じ音を「経験によって聞き分けることができる」と、五感ですらない何かよって理解できると言います。
しかし生徒は必死にその授業に食らいついていきます。
彼女は教授の授業の矛盾や奢りに気がつきながらも、確信を持って繰り広げられる彼の壮大な授業に「何かを学べるかもしれない」という期待を持ち続け、ときに狂気的に何かを理解した喜びに出会います。
そこで登場するのが「ナイフ」です。
彼の理論によれば、一つの「ナイフ」という言葉はあらゆる言語に翻訳できる可能性を秘めています。
彼は鳥のように
ナイフ...ナイフ...
と同じ言葉を繰り返しますが、実は
(スペイン語の)ナイフ、
(新スペイン語の)ナイフ、
(ラテン語の)ナイフ...
と、あらゆる言語の「ナイフ」を彼女に教えようとしているのだと思います。
ただ殺そうとしているのではなく、真剣な授業を続けているのです。
そして生徒の歯の痛みが最大となり意欲が消えそうになった矢先、彼女は「ナイフ」と呟きながら気がつきます。
「この"ナイフ"は、新スペイン語」だと。
しかし、怒りと興奮によって理性を失い混乱した教授には、もはやこれが何語なのか、自分の授業の内容がわかりません。
きっと彼女は最後、
教授よりも彼の授業を理解したのだと思います。
少女が殺され続けるこの話は決してハッピーエンドではありませんが、
彼女が学ぶことの喜びを持ち続け、彼と戦い、受け入れ、最後彼よりも講義の内容を理解した。知識を武器(ナイフ)にした教授を、知的好奇心が超えた。
私はそう解釈したいと思いました。
相手に世界を押し付ける快楽ではなく、相手の話を聞き、違う世界を理解することの喜び。
学びを積み重ねるごとに固くなっていく正義に抗って柔らかくひらき、「でもやっぱり学ぶことって純粋に楽しいじゃん」という知的好奇心を持ち続けること。
そっちの方が人として強いじゃん、と思いました。
小学生の頃から生粋の勉強好きの私は、
「テストで良い点数を取り、他人に自分の価値を認めさせるための勉強」と
「知らない世界を知る喜びを得る勉強」
の間で揺らいできました。
でも、できるなら、
後者の方が1%でも多いって信じたいよね。
そんな勉強好きの願いが、最後のナイフシーンの解釈につながりました。
ラストシーンの意味を説明するのはかなり野暮ですが、絶望的なループを繰り返す今回の話で多少の光になればと思います。
🔪 🔪 🔪
当日パンフレットに書きましたが、
作品は公開した瞬間からは観てくれた方のものです。
ここには自分の解釈を書きましたが、全く違う解釈も大歓迎です。
みなさまのご感想、こちらよりお待ちしております。
戯曲を読んでいただくのも非常におすすめです。解釈の幅が大きい作品なので、演技のないフラットな状態で読んでみると、発見があるかもしれません。
あらためて、授業を観に来てくださったみなさま、応援してくださったみなさま、そして一緒に作ってくれた座組のみんな、本当にありがとうございました。
私は来月から留学に旅立つので、次にできるのはきっと数年後になります。
もう演劇はいいかな...と何度か嫌になりかけましたが、やはり本番を終えると、これ以上楽しいことはなかなかないなと、またやりたくなるものです。
また数年後に劇場でお会いできることを楽しみにしております。
劇団ゆらじしゃく
主宰 高野菜々子
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