食わず嫌いで鈍化するのはなぜ?
女子大生がハイブランドのバッグや服で通学していたバブル時代。
関西の大学では、カラフルでボディーコンシャスな派手服で講義を受けている女子がたくさんいました。
あのカラフルな女子であふれた通学路が目に焼き付いています。
私はといえば…カジュアルな服ばかり着ていました。
よく知りもしないし、手にとってもみてないのに、どれも同じようにみえて、敬遠していました。
もちろん買いたかったとしても、バイト代が追いつきませんでしたが(≧∇≦)
とにかくブランド物を色眼鏡で見ていました。
今もハイブランドはときどき見るだけですが
クリエイティブなデザインは目の保養になります。
身につけるアート…さまざまな要素が入り混じり、駆使され、ひとつの世界観になっています。
最近はプロデュースの修行をしているので、ブランディングやマーティングにも目が行くようになってきました。
LOUIS VUITTON &
というわけで、ルイ・ヴィトンのエキシビションに潜入してきました。
会場前の写真のカッコイイ女性は、残念ながら私ではなく、知らないおねーさんです。
投稿に使っていいか交渉してOKもらいました。
絵になりますねー!
下は私です。
ちょい怪しいです。
リュックは前持ちでとのことでこんな感じ。
この部屋は絵画作品のようなスカーフがたくさん展示してありました。
名画もスカーフに↓
よく観るとモナリザがヴィトン柄の中に。
別のブースにはこんな手作り感満載のバッグも。
制作風景のムービー展示もあり、作家さんの人柄に触れることができました。
このバッグを縫い縫いされてました。
アートですね〜
やりたいことだけをする。見たいものだけを見る。落とし穴
1997年からボーダーを溶かしたいという思いで、
「ジューシーなキョウカイセン®︎」と言うアートインスタレーションをプロデュースしていたのですが、
自分が結構ボーダー設けていた。
ということが、ここ何年かでハッキリみえてきました。
すぐにカテゴライズするクセ。
これはボーダーをつくると共に、自分の視野の広がりの可能性を奪っていく…。
ハイブランドに関しても、食わず嫌いで、何十年も損したな〜なんて思います。
特に子育て期は、ナチュラル・天然にこだわりすぎて、クリエイティビティが劣化していた自覚があります。
6年間のリハビリを経て、今は、さまざまな分野のクリエイティブ魂を、楽しく味わっています。
ありとあらゆるレイヤーが存在理由を必要とするので
いつの時代もボーダーはつくられ続けるのだなあ…と、しみじみ。
ボーダーは溶かそうとしてもまた生まれる。
有機体のように生まれては変化し消え、また生まれる。
「ころなか」で、そのダイナミックな変化を体験したこの1年。
やりたくないこと、見たくないものも、体験する機会も多かったことで視野が広がりました。
どんなことも、やってみないとわからないし、やってみてもすぐにはわからないのだから、自分で決めつけることは、可能性を狭めるし、頑固になりそうで、意識して自分を不快の中にも投じるようにしています。
人に対しても。
ちょっと付き合ってわかった気になっても、ほんの一部分しかみえていないことは明らかで、人は変化していくのが自然…。
ちょっと最近よく、「やりたいこと、楽しいことだけしていこうと決めたんです。」という声をよくきいて、それも実験的生き方だなあと思いつつ、場合によっては黒幕で覆っていく実験になるかも…なんて思い、時々は意見を言ってみたりもしてます。
かなり余計なお世話な気はしています。
やりたくないという感情の自覚は必要だけれど、それとやるやらないは別で、あえてやるということはむしろ体験としての価値は高いと感じています。
あえてやらないならまだしも、やりたくないからやらない!となるのはもったいないかもなんて思うアナログ世代なのでした。
ちなみに、私は認知症の方ばかり入所しているケアホームに勤務していたことがありますが、ほとんど悠々自適な方ばかりでした。
他のケアワーカーさんたちも「どこもそうなのよ〜。不思議ね。」と話されていました。
「嫌な奴・苦手な奴とメシを食う。」
これは主催している講座でヘビロテなワードなのですが…
異見を表現し合うクリエイティブな世界を表しているのかなと思っています。
ほどよい不快がクリエイティビティーや思考力や生命力を養う。
という側面は無視できないと思っています。
食わず嫌いが嵩じると感覚の鈍化が起きるような…そんな感じがしています。
最後までお読みいただき!めっちゃありがとうございます♡