BFC4 1回戦Bグループ感想

タケゾー 「メアリー・ベル団」
(注意:この感想の中には重度に障がいを持つ方についての記述があります。どうか、心が重くなる方は注意して、もしくは読まないでください)
わたしはこの作品としっかり対峙できているか、というとできていないと思う。感想を書くかどうか、悩んだ。書くなら対峙すべきだ。だがこれはとても恐ろしい作品なのだ、わたしにとっては。
作品の読みはわたしという個人を無くしては成り立たない。(作者の方には、これはわたしが作品と対峙した結果として出てきた文章として考えていただきたい。わたしとテキストが対話して出てくる結果だ)だが、この作品に対してはわたしの脳が読み取りを拒否する。できる限り冷静に、誠実に文字を綴ってみたい。
ヤングケアラーの話だ。彼がメアリー・ベルと幻想の中で出会う。その時の「自由な風」を忘れられないと最後の言葉で締め括っている。メアリーに会う描写など実に素晴らしい。
わたしはSNSで個人的なことは書きたくないが、この作品の感想のためにはある程度書かざるを得ない。わたしに近しい人に、重度の障害を持つお子さんを持つ人がいる。(ここではそのお子さんを「その子」と呼ぶ、記号化したいわけではない。できる限りの情報を出したくない)その子はコロナ禍に生まれたので、わたしはずいぶん長いこと会いに行くことできなかった。その子は生まれてからもほぼ一年入院していた。多くの随分大変な手術を乗り越えた。そうしてなんとか家に帰ってきた。今年の6月にようやく、会うことができた。その子をようやく腕に抱いた時のことをどう書いたらいいだろう?まだ体が柔らかく、立つこともままならない。でもその子はわたしや連れ合いの腕の中であどけなく笑い、言葉にならない声を盛んに発し、目を見つめてきて、ひたすら何かを告げようとしていた。わたしはその生命力を浴びながら、ただ泣かないようにするしかなかった。この子は一生懸命頑張ろうとしていて、家族もそれを必死にサポートしている。
その命は、この作品の主人公の妹のように、儚い。もし誰かが世話をしなければ、最悪のことが起きてしまうのだ。
その子にはお姉ちゃんがいる。お姉ちゃんについて、おじいちゃんおばあちゃんたちは「かわいそう」だとことあるごとに口にする。
その子が家庭の中にいることはとても大変だろう(とわたしはとても無責任に軽くいう、ごめんなさい)。その子のお姉ちゃんが「かわいそう」なのかどうか、わたしはわからない。
作中の主人公は辛いだろうと思う。苦しいだろうと思う。そしてものすごく努力したのだろうと思う。
もちろん、主人公が欲望に駆られるのも理解はできる、そして「自由な風」を忘れられないと思うのも理解、できるかもしれない。だが果たしてその「自由」とはなんなのだろう?主人公の世界を構成しているのは障害を持つ妹と母親とそして描かれないが周囲の人だ。たとえ妹がいなくなったとして、彼に自由が訪れるだろうか?そんな簡単な話ではないだろう。彼の世界は妹を失った瞬間に一度完全に壊れるのだから。そしてその選択をした自分を彼は許すだろうか?その「自由」は多分、見せかけの「自由」だ。
わたしは、主人公がメアリー・ベルに憧れるのは良いと思う。そうした暗い欲望に近づく人はいる。誰の心の中にも多分多少の差こそあれ、存在する。
わたしは、主人公がそうした暗い欲望を抱き、見せかけの「自由」に惹かれながらも、なんとか妹を支えようとして自らの道を進んでいく物語を読みたかった。この作品は切れ味も見せ方もいいだろう。でも、わたしは思う。SNSの向こうのヤング・ケアラーは、わたしの近しい人の「その子のお姉ちゃん」がこれを読んだ時に、どうするか。どう思うか。最後の数行は付け足しに見えないのか、どうか。
わたしには震えながら何かを祈ることしかできない。
もしかしたら書かれた方は、ヤングケアラーのお一人だった方かもしれない。そうしたらわたしのこんな薄っぺらな言葉は本当に役立たずだ。もし当事者の方であるのなら、わたしは、あなたが「自由の風」の誘惑に打ち勝った物語を、そこを読みどころにした物語を本当に読みたいです。

佐古瑞樹 「或る男の一日」
この作品のオチ(?)を正確に読めているかどうか自信がない。
ある人物の一日をタイトル通りに描いているだけである。(実は違う読みが存在しうるのか?だとしたら教えてください。これこそ感受性がバカになっていて読めていないのではと思っています)最後に、この人物がタイトルで行けば「男」なので、ゲイなのだな、とわかる。
それがオチなのでしょうか??本当に自信がない。
えっこれから、実は入社以来ひっそりと好きだった「大津」が結婚するからという(いや実は前に少しは付き合ってたんじゃないのか?)ところから、自分の思いに目覚めて、目眩くロマンスが始まるんじゃないかと思ったんですけど、えっはじまらない?そんな!
というわけで、多分読者のうち結構な人は、うん、ゲイだね。なんで?そこ驚くところなの?と思う人が多いと思うし、むしろ大津さんにわざわざLINEしたエピをもうちょっと、そこ詳しく!いやこれで短編ができるだろ、と思ってしまう勢は少なくないのでは……。
まじめになります。(ただわたしは読みたいので続編ができるならお願いします)タイトルの「男」が実はわたしは引っかかっている。語り手は「男」と書く。だが、この作品の中でこの作中人物のジェンダーを定義しているのは一体誰なのか?作中人物は自分を「男」とははっきりと口に出して言っていない。そうすると外部の何かがその人物を「男」として定義していて、読者が想定する「男」とのミスリーディングを誘い、彼が同性愛者であるということを読みのオチにしている、ように読める。
本当にこれがオチでいいんですか?違っていたらただ単にこの感想を書いている人の頭が悪いということで申し訳ありません。
うーん。うーん。うーん。いややっぱり別にもうゲイの人が出てきてもみんなフツーに受け止めると思います。違うのかな?
もちろんこういう男が普通にいるのだ、という話、とも読める。いやまー普通にいるよね。それでも全然いいのだけれど……。そうすると切り口が見えなくなってしまう。
いややっぱり違う読み方があるんじゃないのかな、わたしが読めてないだけのような気がしてきました。ごめんなさい。

見坂卓郎 「滝沢」
面白くて好きだ。でもこれ大丈夫なんですか?っていうのが読んだ後の素直な感想です。平気なの?天下のジャ○ーズの人(退所したけど)そういう人をブンゲイって扱っていいの?大丈夫?ってちょっと思いました。死んだり、童貞だったって言ってみたり、割とすごいこと言ってるけど……わたしは爆笑したけど(ごめんなさい)……(いやよくないのか?)これはお遊びってわかっている人にとっては、笑えるけれど、わたしは個人的に鍵垢で笑いたい案件だなとも思いました。うーん、読者たちが想定してしまう誰かが実在人物(そして存命中であり、活躍中である)であることを考えると、面白いし好きだけど、大っぴらにやってOKとはちょっと言えないところがあります。
デタラメだってわかるからいいのかな?
デタラメが加速して螺旋を描き渦になって、最後にやっぱねー詐欺だよねーとなるところはお見事だと思います。事務所に「た○きー」が何人いるんだ(笑
いや自由で私は好きだけど、ところで「翼」はどうした?
さて、この話は、この話だけで成り立っていない部分が多い。(いやまあどの話も話だけで独立して成り立つことはなく、読者との想像力との協力関係で成り立つわけだけども)わたしたちが知っている、あの人やその周囲の関係があるからこそ成り立つ話である。むしろ、た○きー(怖いから伏せ字)でない誰か、誰も知らない誰かでこの作品が成立するだろうか? わたしは成立するのではないかな、と思うし、その方が自由に面白がれるとは思います。
こうした作品は、SNS時代の産物というか、私とあなたが知っている項目(スパムメール、そして芸能人に対する情報などなど)を縫うようにして面白くなる方法。わたしは好きです。(しつこい)

雨田はな 「踏みしだく」
食べ物やそれを「踏みしだ」き、堪能し、快感を感じる描写は見事だとしか言いようがない。これは自分と同じようで違うものを持つ他者といかに関係をとるか、という話だと思った。
わたしが持つある種の「癖」をめぐって、恋人は去る。もしくは他にはその「癖」を誤解して他のものにすり替えて要求する人間もいた。美奈はそれを「性癖」とまとめる。この三人とのエピソードの中で、美奈は「わたし」を一番自然に近い形で受け入れるのだが、果たしてそれは本当に「性癖」なのだろうか?わたしの幼児期の記憶と結びついているその行為は、おそらく「性癖」、性的に感じるためだけのものではなく、何かもっとぐちゃぐちゃした自我と結びついていることを予感させる。
人は自分の回路の中に人を容れるところを見つけて、そこにはめるしかない。そういう限界と、その中で生きていく一抹の寂寥が描かれていたように思う。とてもいい作品だと思った。
これは、今現代のわたしたちが面しているさまざまないわゆる差別的なことについて客観的に見せてくれているのだと思う。

宮月中 「十円」
読み終わって???って思って噛み締めていると「こわっ」てなる作品だった。最後にお母さん、「安寧」なんて覚えている場合じゃないでしょ!!!ってなりました。
なぜ子供を描写するのが母視点からのものが多いのだろう? もちろんこの作者の方が女性であるならば、おそらく家族の中の「母」に一番視点をうつしやすいのはわかる。わたしも子供を描く話は書きたいなあという構想があるのだが、それはわたしの「母」である経験からのものが多い。(バレバレだけど自分の性別言っちゃったぜ。忘れてください)(この部分は別にこの作品にケチをつけているわけではない。私の思考は雲のようにふらふらするので)もし作者が男性なら、おそらく「父」視点の方がスライドしやすいのでは?と思うが、実は父が描く子についてあまり読んだ記憶がない。(海外作品は別)まあ家で世話をしてくれたのがお母さんということなんだろうけど、いやもうそういう時代でも無くなってるし、そもそも共働きになると、保育士さん視点とかの方がおもろいかもしれん(知らんけど)。それに想像上の「母」、小説や漫画で「想像/創造」された母が本当に実在する今日の、「母親」たちと重なるかっていうと、ハハハ、わたしはフィクションの部分の方が多いと思いますねえ。(わたしはフィクションの「母」を読んで反省したりする。この辺りから、普通の「母親」は(少なくとも私は)割と碌でもない。少なくともここに一人!いやもちろん、ちゃんとした(?)方もおられます)
本題に戻ろう。娘さんの自由研究の十円磨きから始まったものが、教室でのヒエラルキーにもろに影響し、そして最終的にはひどく宗教的な儀式(しかも派閥がある)ところまでいき、そしてお母さんが「安寧」を覚えてしまう話だ。
作中の娘が実際はほぼ創始者に近いだろうに、「リカちゃん」の影響下にあるというよくわからないポジションにいるのがなんとも不思議で、かつ最後の儀式は明らかに馬鹿げているのに、それに参加しなければならない(いやでもなく、当然のこととして受け入れている)のである。怖い怖い。しかも家族ぐるみ????
教室という閉じた空間とそのコミュニティ、そこはかなり閉じていて、そこに参加してしまう、流されてしまう、そういうところを描いている。
その空気のように迫ってくる何かを具に淡々と描出していて面白かった。
とりあえず、このクラスの保護者たちは「アホなことやめなさい!お金がもったいない!」と全員ブチギレてください。磨いてる場合やない。十円だってチリも積もれば山となる、ユニセフにでも募金してくれ。
個人的にはお父さん視点のものが読んでみたい。一番部外者なお父さん、お父さん、あなたの家庭の問題ですよ。

鈴木林 「軽作業」
ディスコミュニケーションの話に読めた。周りの騒音と、「細かなゴミがふんわりと舞って西日に光り……」の点で、視覚的にも遮られている二人の会話は噛み合わず、ディスコミュニケーション状態にある。それが、最後の「ぎょうこう」に至って頂点を迎えて、風船が破裂するかのように世界が飽和する。キリさんはタニさんにそこはかとなく無理さを感じていたんやろな……と予感させる。まあペア解消されてよかったし、「ギョウコウの人」っていうのはなかなかすごい伝説やな、まあこういう人おるなっていうリアリティがあった。
「細かなゴミが〜」の描写はうまいなって思いました。空気はこういうふうに描写して使うことができるのですね。勉強になりました。
小道具が上手にディスコミュニケーションを演出している作品だと思いました。


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