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ブラックホール

 キアラは、朝、バールで今日はmezzi公共交通機関scioperoストライキだと聞いた。誰にでも権利はある。行使するのは当然だ。だが、おかげで街は半身不随だ。カップチーノとコルネットを手早く胃袋におさめて、大通りに出る。バスが視界に引っかかった。Che culo!  ラッキー!すし詰め状態で、呆然と外を見る乗客の一人と目があった気がして、さっと視線を外した。ポケットに手を突っ込んで、一番近い地下鉄駅に向かう。
 地下鉄はあんまり好きではなかった。うるさいから。車輪と線路とがごうごうきいきい凄まじい音を立てて、思考すら引きちぎられる。自分が自分の形を保っていられない感じがする。
 プラットホームも人は少なかった。今日の幸運をここで使い切っていなければいいけれど。電光掲示板に間もなく列車が来ることが表示されている。自分が使える時間のかけらを寄せ集めるように、スマートフォンを開く。夫には笑われるだろうけど、SNSで流れてくる、好きな俳優の画像をこっそり眺めているのだ。その時だけは自分は自分の身体から解き放たれる。その彼の、この世のものとは思えない美貌の画像の合間に、ふと、何か不穏な文字が見えたような気がした。頭の中にいくつか疑問符が並び、考えを整理する前に、空気の抜けるような音が耳に挿しこまれた。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。列车已经来了呀!電車が来たんだわ!
 スマートフォンをカバンに突っ込んで、電車に乗り込む。人は少ない。鼓動がなぜか駆け足になっていく。さっきの文字、あのハッシュタグ、なんて書いてあった? 確かめようにも、この線は電車内ではネットが使えない。新しく郊外に向かって伸びた線、貧民と移民が住む地域、金を生まないところを整備する必要はない。 #Solo5minutiallafinedelmondo、世界の終末まであと5分……見間違えでなければ、そう書いてあった。どういうこと? また「終末予想」が出たの?
 その予想は科学者たちによって出される。最初の予想で世界は大混乱した。だが結局、世界は終わらなかった。それでも科学者たちは何度か出した。終末の原因は色々あるが、まもなく急速に温度が上昇するだろう、というのだ。問題は「いつ」かだった。予想は何度出ても世界は終わらないし、みんな生活がある。だからもう慣れっこだった。どうせいつかは全てが終わるのだから、おっかなびっくりする必要はない、皆そういう顔を貼り付けるようになった。その通りだ。だが、胸がどきどきして止まらない。ようやく、子供たちにも温度上昇に耐えるための肌強化手術ができるようになったのに。子供たちにその手術が適応されるかどうか、ずっと議論されていた。政府の子供には選挙権はないと言わんばかりの無責任さにはうんざりだった。それでもようやくできるようになった。人種関係なく、というニュースを聞いた時涙が出た。自分の番はだいぶ先だけれど、子供たちだけでもできる。だがもし本当にあと五分で世界が終わってしまうとしたら?
 世界が本当に終われば、毎日仕事に行くことも、言うことを聞かない子供たちの相手も、夫との口喧嘩も、生活の大半を占める思い通りにならない瑣事の塊が終わる。自分に過った考えにキアラはぞっとした。だがそれはひどく魅力的だった……。
 一つの駅を過ぎて、目の前の席が空いた。腰掛けようとして、ようやくその隣の席の男がこちらをじっと見ているのに、気がついたことにした。乗った時から見られている。背の高い、金髪碧眼の、整った顔をした男だった。すでに「手術」済みだわ。「手術」は、皮膚に温度と日光の耐性がない人種から始まった。つまり、肌の色が薄い人間から。有色人種はいつも後回し、世界は変わらない。
 男は遠慮のない視線を注いでくる。アジア人なんて珍しくないでしょ!
 思いながら席に座る。先はまだ長い。隣からの視線を感じる。視線を受けたところが痛みを訴えるようだ。ただ息を詰める。若くはないアジア系の女を凝視する理由にあまりいいものはない。ごうごうきいきい。列車が金切り声を上げる。大丈夫、世界は終わらない、わたしにも何も起こらない。自分に言い聞かせる。何も起きずに二駅は過ぎた。五分は過ぎた? キアラは息を細く長く吐きながら、男が身を屈めるのを見た。何をするの?
 男は床の、小石を手に取った。ああ、それをわたしの目に押し付ける気なんだわ。考えが稲妻のように頭に閃いた。ぎゅっと目を瞑った。
 「手術」は人種間の嫌悪を煽った。キアラは、混血の子供たちの目が父親譲りの、琥珀色なのを感謝した。
 ……黒い瞳で何が悪いの。
 ――ママの目は黒洞ブラックホールみたいだ。
 ふと子供の声が耳の奥に響いた。宇宙が好きな上の子が目を輝かせた。最近、子供たちはようやく自分の名前を正しく発音してくれるようになった。「晨曦チェンシー」嬉しそうに繰り返し呼んだ。「どんな意味なの?」「朝の最初の光よ」夫もその名前から、「キアラ」(注1)とこの国で生きていくための名前を考えてくれたんじゃない。
 ――ママの目は宇宙一強いんだね。なんでも吸い込む!
 ――パパも吸い込まれたんだ! 宇宙で一番美しい目だ!
 耳の奥に笑い声がこだました。わたしの目はブラックホール、宇宙一強くて美しい……。

晨曦、もし世界が本当に終わるなら、どうするの?

轟音が脳髄を埋め、思考を引きちぎりにくる。眼裏で、子供達と夫のそれぞれ美しい色の斑紋を描く瞳が恒星のように輝きを放つ。地下鉄はブラックホールに吸い込まれるが如く黒いトンネルを疾走する。どうせ世界はいつか終わる。わたしは目を開く。全てを飲み込んでやる。

注1:chiara、イタリア語でchiaroは「明るい」の意味

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