BFC4 1回戦Aグループ感想
注意1:ネタバレ、作品の結末に関するところまで感想を書いています。
注意2:読者であるわたしは純然たる読者なので、読者として書いています。全ての創作者の方を尊敬しています。素敵な世界を見せてくださってありがとうございます。
古川桃流「ファクトリー・リセット」
ぞっとした。(注:褒めてます)ごく自然に男性視点の男性の物語として描かれ、「機械」型が全て女性であるという点が怖い。この世界は男性がすでに生身の女性を配偶者に持つこと自体が「贅沢」になった時代なのかもしれない。(違うかもしれない)貧しさもあるだろうが、発話する男性は完全にそうしたことを呼吸するように受けいれている。疑問も持っていないし、感情も描かれない。男性自身が中身が空っぽのファクトリー・リセット状態のアンドロイドのように空虚だ。アリスもオカンも消耗品に過ぎない。オカンは「責任」を取れというし、「アリスさん」というのだから機械を一人の人格として認知している。だが、男性が「アリス」を扱うぞんざいさはどうだ。
男性は貧しくて金がない。だがかなり高度なことを説明できる知能はある。だが感情はない。この辺りに齟齬を感じるが、これも企みの一つだとしたら本当に恐ろしい話である。男性は、頭はいいが、仕事はなく、金はない。隠れるように「アリスさん」を「配偶者」かあるいは家事をする何か、もしくは他のものとして一緒に暮らしている。だが彼のおそらく感情的な拠り所はスマートスピーカーに落とした「オカン」だ。
男性の空虚さや、アリスが壊れた理由を考え始めるとぽかりと落とし穴が開く仕組み。オカンの若い頃は、まだVR接続で「他界」は稀だったのに、たったの数十年で全ての価値観が変化していることも示唆されているのが怖い。怖い怖いばかり言っているが、一番怖いのは、こういう「男性」のような人はすでに今の社会に存在していて、わたしはこういう男の話を友人から聞いたことがあるということだ。
日比野心労 「小僧の死神」
読んでいる最中まるで安心できなかった。疾走する子供は心臓に悪い。お願い、洋太、自動車・自転車・歩行者にだけは気をつけて、道を渡るときはせめてとまって!周りの大人はちゃんと運転しなさいよ!道を歩くおばちゃんおじちゃんお願いだから「クソあぶねーから、あるけ!」って言ってあげて。そんなん走ってたら「追いつかれちゃうから」やめなさい!とおばちゃんはほとんど祈りました。洋太が家に着いて本当によかった。6枚目で大変なことが起きたらおばちゃんはbfc完走できないだろうとすら思いました。(作品のせいにしないように)
疾走感が小気味よく、素晴らしい。幼児期に誰もがおそらく覚えがある「誰かに追いつかれそう」で誰からか逃げようとする(何も危ないものなんかないのに)そういう欲望を活写している。
だがこの物語は、それよりもはるかに不穏だ。洋太は「追いつかれてしまった」広史くんを思っている。広史に追いついて襲った黒い影から逃れられないのだ。どうか洋太が安心して自分のために疾走できる日が来ますように。
スマブラが何かわからなくてググる先生に訊いた。割と最近のものだ。だがこの最近の状態で、お父さんが「大学」に勤めていて、お母さんはおやつに「ホットケーキ」を焼いてくれる家庭があるかどうかがリアリティを担保する鍵になるだろう。洋太くんは学童に行っていない。(学童に行っていない唯一の日かもしれない)かつお父さんは「アキレスと亀」の話を夜にしてくれるので、相当学のあるお父さんである。お父さんは専任か非常勤かでだいぶ違うが(非常勤だとしたらまずお母さんが専業主婦でやっていくのは難しい)、車で大学まで行っている……そうか……わたしはかなり細かいところが気になったりするのだが、洋太くんの描写がリアリティに満ちている分、そこがとても気になってしまった。
洋太くんには元気に「追いつかれず」に、育っていってほしい。彼はいつか影を振り払えるだろう。最後そんな希望をもらった。
藤崎ほつま 「柱のきず」
これもやっぱり不穏な話で、わたしのふやふやした脳細胞では誤読している可能性があるが、わたしは読みに不正解はない、というタイプなので受け取った通りに読もう。(作品が作者が意図したように読まれるとは限らないし、作品は読者とテキストとの対話でしかない、という主義である)意図通りに読まれたい場合には、読まれるように書かなければならないだろう。(だがそんなことは果たして可能だろうか?)
作中にもあるとおり「人に酔う」作品である。そしてこの作品の場合、わたしは時に煙に巻くような読み取りを半ば拒否しているような書き方すら意図的だと考える方が自然だろうと思う。
この屋敷には、おそらくこの屋敷で死んだ人たちが集っている。死んだ季節や死んでいた時にやっていたことを永遠に繰り返しているのではないか、と推測されるし、多くが自殺や事故であろう。オフィーリアというあたりが出てくるとこも、そっか……という感じがする。この作品でヤマシタトモコの三角窓に登場するあの家を連想した。やはり不穏な家でこの屋敷に住まう人間は死んだ一族に「おいでおいで」されているような予感がありありで、とりあえずゆあんは遠くまで逃げた方がいい。外国人の配偶者か何かを見つけてさっさと、外国に住まいなさい。取り壊しなんかではわたしは絶対に安心できない。お盆だから戻ってきているのかもしれないという気もするが、お盆で一堂に会するのなら、一族もうちょっと楽しい会話をするだろうが、終始気だるげである。(その気だるげさがいいのだが)
さて脱線がひどい。作品ではない。わたしの思考です。仕掛けは面白くてそうか、この視点はすごいな、という感じである。だが、この作品はある意味仕掛けが強すぎる感じがする。美しく細く細工された小箱を見せてもらった感じがする。ため息が出るほどに素晴らしい。だがその小箱の用途がわからないのだ。用途や意味は必要でないかもしれない。「私」が終始観察者でしかなく(おそらく幽霊の一員であるのに)カメラレンズとしてしかほぼ存在してないように(わたしには)読めてしまったのが、かゆいところに手が……
という感じ。この設定でぜひ長いのが読みたいです!
否、一点気がついたのでふと追記、登場人物の名前はみんな「縁」の読みだ。ゆかり、えにし、よすが、ゆあん(中国語では縁はyuanと読む。厳密には「ゆあん」とは聞こえない)からくるだろう。そうするとこの話は違う回路が開く可能性がある。もしかしたら分裂した自己の話なのかもしれないと思ったところで怖気がきた、やはり不穏である。こわやこわや。
草野理恵子 「ミジンコをミンジコと言い探すM」
わたしは詩心のない人間である。言葉を操るにも詩的なものは書けないので、詩をしっかりと読み解いたりちゃんと感じる感受性が(多分ほとんど)ないという前提で書く。
不穏である。不穏とばかり言っているが、果たしてこれまでbfc4に並んでいる作品は、NetflixやAmazonプライムを開くとずらりと並ぶばりに不穏なものが多い。
不条理なものに道理を通すことはできない、もしかしたらうまく視点が開ければ一つ線を通すことができるかもしれないが、そういうのはわかる人にお願いしよう。
何か事故が起きたらしい、そして崖から落ちて死んだらしい、三途の川を渡ったのかな?んで地獄に落ちた?
みたいな理解である。途中まで頑張って理解しようとしたが無理であった。そもそもわたしが好きなのは三好達治の情景描写だったり、徐志摩のいけすかなさだったりするので(どちらも割と理解しやすい)全くもって多分相性が悪い。ごめんなさい。理解するな、感じろ、なのかもしれないが、なかなかに難しい。
でも最後の部分はとても好きだ。
666の数字とは悪魔の数字だが、いいかどうかわからないけれど、二人で一緒に天国だろうが地獄だろうがこの世だろうが、しらん惑星だろうが、同じ空間と時間を共にして生きていけるというのはいいことだ、素晴らしいことだ。せめて「わたしたち」に幸あれ。
池谷和浩 「現着」
一体何が発生している社会なのだろう?「無政府家政婦」の仕事とはなんなんだろう。少なくともこの職場は「婦」が示す通り「女性」しかいない。そして安全規則によってお互いを持つ呼び名を持たない。個人の特定をしてはいけない。同じ職場であるコミュニティに属し、仲間意識を持ちながらも分断された無個性な「個」であることを強いられている。仕事、という名目で。連帯が実質的にできない状態にさせられている。
不思議な話である。そして最後に示唆されるが、時空すら彼女たちは隔てられている可能性すらある。かつ多分あまり安全ではないこともある仕事だ。
書いていたら切なくなってきた。無政府家政婦という言葉はとても面白そうだが、ちょっとモヤっとする。無政府の家政婦ということなのか?それとも、無政府家政の婦なのだろうか?よくわからない。果たして「家政婦」は何を意味するのだろう?彼女たちはなんの「家」政をするのだろう?無政府なのに「家」概念に縛られているということなのだろうか?「家政夫」は存在しないのだろうか?
この作品の意図は良くは見えない。現実を揶揄しているのか、ただ真っ暗なトンネルの中にブッ込まれても普通に楽しく仕事をして仲間を作っている人が、危険に晒される話だ。でも切なくなるのは、この作品がそれだけ現実に近いというところにもあると思う。誰かと繋がりたい、コミュニティを作りたい、という欲望と、「たかいこ」や「ひくいこ」と個を晒して交流できないということ、そして何かあってもおそらくは何もできないのだ、という絶望感が、この楽観の中に潜んでいて、それは見事だと思う。
未来においてもケアワーカーに「婦」がついているというのは、切ないなあという感じがする。まあこれはただの個人的な願望です。ぜひ前と後ろをつけて無政府家政婦が何かをぶっ飛ばす話で読みたい。生き生きした女性たちのやり取りをもっと見たい。
野本泰地 「タートル・トーク」
「酒は口より入り、恋は目から入る」という一節がいいなあ、と思った。この作品はある人物から唯一交流ある「ヨシノ」との関係を描いている。わたしのポンコツな目が読み落としている可能性はあるが、視点人物の一人称代名詞は登場しない。一人称代名詞を登場させると日本語は人物の個性が出過ぎてしまうので、そのための配慮ではないか、と思う。この作品は視点人物が男性であろうと女性であろうと良いように書かれている。
視点人物はずっとヨシノを見ている。彼/彼女の恋は目から入っている。片思いはどのくらい長いのだろう。ただこのままでは進展しないのだろう、進展させないということを覚悟しているようにも思う。わたしは視点人物は女性として読みたい。
つかず離れず、相手に良い距離を保ってずっと一緒にいる。切ないなあ。どうか良い出会いが「彼女」にありますように。いつかあなたの目を奪う他の誰かがいて、長い片想いが終わればいいね。