一生分かり合えない「酒飲み」と「酒飲まず」の話。
一生分かり合えない関係性の例え代表として取り上げられがちなのは「男」と「女」であるが、「男」と「女」以上に分かり合えない関係性は「酒飲み」と「酒飲まず」であると、私は思う。
「酒飲み」と「酒飲まず」の個人的な定義は以下のとおり。
・「酒飲み」…文字通りお酒が大好きで、いわゆる「飲みにケーション」の存在を信仰している人々
・「酒飲まず」…お酒が飲めない(または飲まない)人々
まず最初に、私がどちらの立場であるのか?という点について言及すると、「酒飲まず(お酒が飲めない)」である。
ふと思ったが、私自身が「酒飲まず」であるからこそ、タイトルのような「酒飲み」と「酒飲まず」は一生分かり合えない、という考えにたどり着いてしまったのかもしれない。
「酒飲み」は、基本的に「お酒を飲むこと」を非常に楽しんでおり、誠に喜ばしいことであるが(中にはソムリエの資格を取得し、良いお酒を嗜むことに重点を置いている人もいてうらやましい限り)、
私は、「酒飲み」が酒の失敗をヘラヘラと武勇伝のように語るのが解せない。
さらに言うと、「酒飲み」と「酒飲まず」の間で発生している溝について頭を抱えている。
「酒飲み」は「酒飲まず」に対して、「飲めば強くなるよ、慣れだよ」と言うが、そういうものではない。特に肌が赤くなったり、かゆくなったりすることに関しては、もはやアレルギー反応に等しいと思う。
「酒飲まず」が無理して飲んだ結果、平常時には考えられないくらいの心臓の鼓動、気持ち悪さが発生していることを「酒飲み」には理解してもらえない。正しく言うと、理解することができないのだと思う。自分がそういう立場にならないと理解できないのだ。私が「酒飲み」の考えを理解できないのと同様に。
「酒飲み」は限界突破した際に、前述の状態になるから理解していないわけではないと反論されるかもしれないが、「酒飲まず」は初期段階(私は2~3口で)でその状態に陥るため、周りの人々が全然平気な中、そのような状態になることにひどく気を遣う。かと言って、乾杯時にウーロン茶を飲むのもノリが悪いと思われそうで、サワーくらいは飲む。案の定「大丈夫?」と言われることもしばしばあり、定型文のように「大丈夫」と答えるが「大丈夫ではない」ので、少しずつセーブしていく。
当たり前が違うのだ。
ひと昔前に比べたら「俺の酒が飲めないのか」といった強制飲酒文化は減り、お酒は飲みませんと公言している人も増えたと聞くが、結局そこで「酒飲み」と「酒飲まず」の間に溝ができていることをひしひしと感じてしまう。
また、「若いうちにお酒の失敗はした方が良い」論もよく聞くが、全然意味が分からない。何事においても失敗から学ぶことはあるが、お酒の失敗から学ぶこととは何ぞや。
お酒の失敗をした人は、皆口を揃えてこのように言う。
「今度からはあまり飲みすぎないようにする。しばらく禁酒する。」
しかし、また失敗を繰り返すのだ。
お酒が原因で取り返しのつかない失敗をした芸能人が散々誹謗中傷を受けているが、結局そういうことなのか。お酒の失敗はしたほうが良いと言っていた「酒飲み」が、手のひらを返して攻撃にかかる。
話がとめどなく広がってしまったが、先に戻ると「酒飲み」と「酒飲まず」が一生分かり合えない、と感じるのは、私が「酒飲まず」だからこその思考だからだと思う。
私が「酒飲み」の立場だったら、「飲めば慣れる」といった医学的根拠が全く無い考えを無意識に強く持ち、「酒飲み」の自分を存分に楽しむと思う。お酒が入ったら、「酒飲まず」に対して無意識に溝ができていることもどうでも良くなって。
これからの「酒飲み」との付き合い方をどうしようか、考えを巡らせているが、なかなか答えにたどり着かない。
ただ、「酒飲まず」である故の無知の知は社会人として恥ずかしいので、お酒に関する勉強でも始めようかと思う。
数年後は、「酒飲み」になっているかもしれない。
おわり
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