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『春と私の小さな宇宙』 その73(最終回)

※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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「本当に元気でよかった。・・・それで、出産予定日はいつなの?」

「後、一週間ぐらい。もうすぐよ」

ハルは命の詰まった下腹部を優しく撫でる。それに応えるように内部で我が子が蠢いた。

「本当に・・・無事で、よかった・・・」

ハルの視界がゆがむ。目がじんわりと熱く、塩分を含んだ液体が次々に湧き上がる。それが顔に流れて二本の線を描いた。線と線は下顎で混じり合い、一つの小さな水滴となって地面を濡らした。

頬をつたうものが何を意味するのかわからない。

「これは・・・なに?」

ハルは手でそれを拭うと、儚く蒸発して、消えた。

「これは涙よ」

「知っているわ。なぜ、私は泣いているの?」

「それは、うれしいからじゃないかな」

「うれしい・・・」

悲しいと泣くことは知識として知っていたが、うれしいと泣くことをハルは初めて知った。涙が止まらなかった。

うれしくて泣ける。これから生まれてくる子を愛することができる。その溢れる想いの根源。ハルはようやく、胸から込みあげてくる「何か」の正体がわかった。

生まれてきてくれて ありがとう。

「これが、感情なのね・・・」

あの無意味に水を吹き出す噴水も、神への祈りも、意味があったのかもしれない。感情をはっきり自覚し、ハルは思った。

突如、巨大な風が吹き、桜の木の枝を大きく揺らした。咲いていた花びらが一斉に散る。灰色の並木道が淡いピンク色に染まった。

突風に煽られ、ハルの傍らに置いてあるバッグが傾く。入っていたカゴがベンチから転がり落ちた。

「わっ! 春一番ね」

「春、か・・・」

自分の親はどんな気持ちで私の名前をつけたのだろう。どんな意味を込めたのだろう。

春のような温かい人間になってほしかったのだろうか。残念ながら真逆になってしまった。

この生まれてくる子にはぴったりで、想いのこもった名前を贈りたい。ハルは今まで深く検討してこなかった我が子の名前に想いを馳せた。

「あれ? カゴの中がからっぽだよ?」

ヌシのいない空のカゴを見てアキが指を差す。落ちたカゴは、風に流されるまま力なく転がっていた。

「ああ、あれ? そうよ。あの事故で、飼っていたモルモットが死んでしまったの」

「ええ~! 可愛かったのに!」

衝突事故の衝撃は小さなモルモットにとって深刻なものだったらしい。病院から退院した時、カゴの中を見た。白い毛が垂れ、目は閉じたまま、肉塊になっていた。

「おかげで実験は失敗したけど、もうどうでもいいわ」

「え? あれ実験をしてたの? どんな実験?」

「遺伝子操作。人間並みに高い学習力を持った個体をつくっていたの」

「うわっ、それってヤバくない? 絶対、法律に触れるやつじゃん。そんな事したらダメだよ! 本当に大丈夫なの?」

「ええ、研究データは全て破棄したし、物証は闇に葬ったわ」

今頃、骨となり土に還っているだろう。勿論、データは頭に全て入っている。

「怖っ! どこのマッドサイエンシストよ。でも、可哀そう。あの子も妊娠してたでしょ?おなか、膨れてたもんね」

やはり彼女は勘がいい。気付かれていたようだ。そう、あのモルモットは妊娠していた。

「結果的によかったわ。あなたの言う通り、あれは、生まれてはいけなかった生物なの。最初から世間に出てはいけなかった・・・」

絶命を確認した後、亡骸となったモルモットの腹部をハルは切開した。埋める前に確かめておきたかったのだ。実験がどこまで進行していたのか。

子宮を開くと、胎児は実験体と同じ四足獣の形をしており、人間のような五本の指が生えていた。

まるで、未熟なサナギの中を覗いたような感覚だった。詳しく調べると、その生物は首にへその緒が何重にも絡まり、息絶えていた。

その顔はどこか人間に似ており、なぜか、笑っているように見えた・・・。

「安心しなさい。もうそんな実験はしないわ。それにモルモットなら、また新しいものを補充すればいい」

ハルは通常の無表情に戻っていた。

「・・・あんた、変わったと思っていたけど相変わらずね」


春の風に誘われ、丸く透明なカゴが無抵抗のまま、コンクリートの並木道を転がった。

そのカゴは『私』にとって、もう一つの宇宙でもあった。

校門を出た小さな宇宙は、通りがかったトラックに轢かれ、あっけなく、潰れた。

END


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