『春と私の小さな宇宙』 その10
※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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「そういえばさ、今日はメガネんち行く日だっけ?」
唐突にアキが話題を変えた。
「メガネ」とは宮野のことである。彼女は存在がメガネであ る宮野のことを「メガネ」と呼んでいた。 顔を向けると彼女は少し不安そうな顔をしている。
「ええ、もう少し行くわ」
「よくいけるわね、そんな身体で。お金稼ぐためとはいえ、無理しすぎなんじゃない? ハルのことだから大丈夫だと思うけど・・・」
アキの顔がみるみる曇る。そこに笑顔はなかった。今にも雨が降り出しそうな顔つきである。純粋にハルの身を案じているのだ。
「心配してくれてありがとう。でも、帰りはバスで帰るから平気よ。それに、受験に必要なことをもう少し教えないといけないから」
「ユウスケ君、受かるといいよね」
「そうでないと困るわ」
アキの顔がさらに曇る。
「ところでメガネに変なことされてないよね?」
「大丈夫よ。帰ってくるのは遅いし、家には奥さんもいるから」
「よかった~。それが一番、気がかりだったの!」
アキの表情がぱっと晴れる。不安がなくなったのか足取りが軽い。 坂を下るとT字の分かれ道がある。辺りは薄暗くなり、街灯が灯る。伸びた夕日の影が薄れ、街灯の影が濃くなり始めていた。
アキは右に、ハルは左に曲がる。
「それじゃ家庭教師、頑張ってね!」
「ええ、行ってくるわ」
二つの人影が、離れる。
「おいしいご飯作って待ってるから~!」
暮れていく道に、彼女の屈託のない笑顔だけが輝いていた。
「・・・ありがとう」
家へと帰るアキの背中をハルはじっと見ていた。
私は月、あなたは太陽。あなたがいなければ私は輝くことすらできない。
自身の存在が急激に暗闇の底へ消えていく感覚を、ハルは自覚した。 時間の無駄だと理解しながらも、ハルはただ立ち止まり、その表情は冷めて凍っていた。
太陽を失った月のように……。
アキと別れ、ハルが宮野の家に到着する頃には、すっかり日が沈んでいた。
門についている外灯の光から逃げ出した闇が、庭の隅や草木の背後に隠れている。横から吹く風が白衣越しに身体を冷やした。
チャイムを鳴らす。しばらくして声が聞こえ、玄関の扉が開く。出てきたのは若い女性だった。長い髪を後ろに束ね、エプロンを掛けている。
宮野の妻、ミチコだった。料理の最中だったのだろう、片手にお玉を持っていた。
「あら、ハルちゃん。こんばんわ。ごめんね、いつもこんな遅くから。今、美味しいお料理作ってるから、ごちそうするわね」
玄関の奥からかすかな匂いが漂ってくる。
「肉じゃがですね。それとポテトサラダも作っていますか?」
「すっご~い。当たり! ハルちゃんは嗅覚も敏感ね!」
ハルには極々当たり前のことだが、あまり詳細に説明するのは自慢をするようで感じが悪い。そう考えたハルは話をそらすことにした。
「ええ、まあ、そんな事より早く台所に戻った方がいいですよ。鍋のぐらつく音が聞こえ ます」
「まあ、大変! 全然気付かなかった! お鍋が煮えすぎちゃうわ!」
ミチコはパタパタと台所へ消えていった。 アキが家で料理を作ってくれているため、ここで食事する気などさらさらない。あとで断ろう。
のちの事を考えつつ、ハルは構わず玄関を上がった。 通路は明るく、ピカピカに磨かれた木製の床が蛍光灯の光を反射していた。壁に飾られたプラナリアの絵が床に映し出され、分裂しているように見える。
通路の右側に扉があり、中はテレビが視聴できるリビングになっている。 そのまま通路をまっすぐ進むと台所がある。扉は無く、のれんが垂れさがっていた。
手遅れになりかけたのか、ミチコの鍋と格闘する声が聞こえる。においと音からして味付けが少し濃く、ジャガイモが煮崩れしているようだった。醤油を多めに入れて強火で長 時間煮ていたのだろう。
ハルぐらいになれば見なくてもわかる。ハルの完全体感記憶能力は視覚だけに留まらない。ただビデオを回すように録画するのではなく、普通では記録できない嗅覚、味覚、触覚なども同時に、完璧に記憶できる。
さらに情報処理能力も高く、それらの情報を結び付けて別の情報を知ることも可能である。だから、音で視界を、においで味を感じることができるのだ。
ミチコの悲鳴を無視し、二階へ向かう。台所の入り口に通路が横切っており、そこを左に曲がったところに階段がある。その先の突き当りにトイレや風呂場が見える。 右に曲がるとノブユキの部屋があった。
ノブユキとは助教授、宮野の名前である。彼の部屋の扉は常に鍵がかかっており、他者の侵入を阻んでいる。
階段を上る。やはり上るのはきつかった。手摺に手を掛けながら進む。木製の階段がきしむ音がする。手摺が途切れると二階に到着した。
二階には二つの部屋がある。右側にあるのがミチコの部屋、兼、寝室だ。 この家の夫婦は、同じ部屋で揃って寝る習慣が無いらしい。
過去に一人の方がゆっくり寝られるから、と宮野ノブユキが言っていた。 左側に子供部屋がある。 彼の部屋の前まで立つと扉をノックする。
「・・・来たわよ」
少し遅れて誰かが扉に駆け寄る音が聞こえた。
「ハルおねえちゃんだ! 入って入って!」
元気よく扉を開けたのは宮野の息子、ユウスケだった。アキと同じく、表情筋がよく動く子供である。
ハルは無表情のまま部屋に入った。
続く…
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