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イチョウウキゴケの学名不明・混在問題

イチョウウキゴケというコケがいます。絶滅危惧種であり、コケ類で唯一の水上浮遊性のコケでもある興味深い植物です。


この植物(コケ)ですが、学名に関して混乱があるようです。ただのケアレスミスであれば訂正を促せばよいですし、見解の違いであれば議論するか受け入れることもできますが、調べてみるとこれは根が深い問題である可能性が出てきました。よって、本記事では経緯と問題点、および問題の根本原因を簡単にまとめておこうと思います。最終的な確認は博物館の学芸員さんの協力が必要だと思われますので、説明のための覚書の意図もあります。

経緯

きっかけは、イチョウウキゴケの現在の分布を調べようと博物館の植物標本デジタルデータを調べていた時でした。標本データを見ていると、博物館によって学名が違うのです。

日本で同じ種類とされている生物の学名が複数あるというのは良くあることです。ただ、厳密には学名は基本的に一つだけしか存在しません。イチョウウキゴケの学名は
Ricciocarpos natans
のはずです。ところが、図鑑を見てみると

新牧野日本植物図鑑・・・Ricciocarpus
日本の野生植物  ・・・Ricciocarpos
原色日本蘚苔類図鑑・・・Ricciocarpus
とばらつくのです。ちなみに、イチョウウキゴケはその名の通りコケ類であり、日本各地で絶滅危惧指定される程度には生息地が限られることもあり、載っている図鑑自体が少ないです。

各地の標本庫においても同様で、
兵庫県立人と自然の博物館 ・・・Ricciocarpus

神奈川県立生命の星・地球博物館 収蔵資料データベース・・・Ricciocarpus

サイエンスミュージアムネット・・・Ricciocarpus

大阪市立自然史博物館・・・Ricciocarpus

福島大学貴重資料保管室植物標本室 ・・・Ricciocarpos

沖縄県立博物館・美術館・・・Ricciocarpos

となり、やはり電子的な登録名もバラついています。これでは正式な学名がわかりません。(なお、正式な学名は正式な標本、「タイプ標本」が納められている標本庫に聞くか、正式に学名を記した論文「原記載論文」を入手すればわかります。これは後述します。といっても僕では解決できないんですけれども)。

問題点

たかが学名と思われるかもしれませんが、これは結構大きな問題です。海外の研究者は日本での一般名「イチョウウキゴケ」という文字列では検索しません。英語では一般名が「fringed heartwort」だそうですが、一般名は基本的に各国にあります。アメリカ人も日本人もドイツ人も共通して使う共通名称、それが学名です。学名は「ラテン語」表記ですが、これも世界中で共通して使えるためです。
ラテン語は既に仮死言語で、ネイティブスピーカーは実質的に存在しません。そのため、常用されることで意味が変化したり発音が変わったりしないことが期待でき、かつ特定の国だけが優遇されることもないというメリットがあります。

そのため、各国の研究者は日本のどこにイチョウウキゴケが分布しているかを調べるときにラテン語の学名で検索するわけです。このとき、日本の標本庫で「Ricciocarpos」「Ricciocarpus」が混在していては、どちらかが検索から漏れます(実は海外の標本庫も混乱しています)。

なぜこんなことに?

なぜこんなことになったのか、この種が正式に名づけられたのは約200年前なので状況証拠しかありませんが、推測してみます。あくまで推測です。海外では成り行きが説明されているかもしれませんが、なんにせよ英語はあまり得意ではなく。ちなみに、GBIF(地球規模生物多様性情報機構Global Biodiversity Information Facility)では、イチョウウキゴケのRicciocarpus natans は Ricciocarpos natans のシノニム(別名)として扱われています。
https://www.gbif.org/species/4921997

イチョウウキゴケの学名は、ラテン語の意味から3つのパートに分かれます。
Riccio 毛の生えた、ハリネズミのような
carpos 手の骨
natans 遊泳性
これは、「遊泳性の、毛の生えた手の骨」という読み下しが出来、実際に意味が通ります。良い学名です(当時はイチョウは発見されておらず、一番似ているのは手の骨が実に適切)。

見ての通り、毛も生えています。


なのですが、実はcarposはラテン語の語彙ではなく、ポルトガル語やイタリア語など派生言語のスペルです。近代ラテン語や英語では手の骨は
carpus 手の骨
なのです。実際、恐らくは多くの人にとっては「リシオカルパス」の方が発音しやすく、「リシオカルポス」はちょっと不自然です。

では、「Ricciocarpos」「Ricciocarpus」どちらが正しいのか。(厳密に言えば、タイプ標本のラベルと源記載論文のコピーが必要ですが、手続きも面倒でお金もかかります。多分、どこかの博物館の学芸員さんあたりが私的に持ってたり、あるいは確認してくれることを勝手に期待します。)
僕はお金もコネもないので、乱暴に推測すると。恐らくは3つの原因が可能性として考えられます。
A.原記載者(種の発見者)Cordaがスペルをミスした
B.Cordaが書いた字が癖字すぎて誤読された
C.Cordaが強い意志を以ってcarpusとした

さて、原因はABCどれかとして、元々の表記はといえば、正直、「Ricciocarpus」→「Ricciocarpos」のミスは不自然すぎて考えにくいです。本来は「Ricciocarpos」というちょっと不自然なスペルであるために、後の人たちがちょいちょい転記ミスして「Ricciocarpos」→「Ricciocarpus」としているのだろうと思います。よってちょっとCは考えにくい。Bの可能性はありますが、国際藻類・菌類・植物命名規約によって、明らかに間違っている場合はスペルミスを直すことが認められており、今も間違いが増殖している原因としては弱いです。よって、原記載論文がそもそも完全に間違いとは言えない微妙なスペル「Ricciocarpos」であったために、現在も多くの人がケアレスミスや転記ミスをしている、と見るのが妥当と思われます。

日本ではもっと厄介かも

さて、日本において本種を紹介したのは、十中八九間違いなく、かの有名な牧野富太郎博士でしょう。日本植物学の父にして、日本でもっとも多くの植物を発見した植物学の神、「牧野日本植物図鑑」を刊行した人物です。

さて、実は現在発行されている「新牧野日本植物図鑑」およびもっと古い版においても、イチョウウキゴケはRicciocarpus natans と表記されています。

新牧野植物図鑑、1196より

現代においても牧野植物図鑑はバイブルの一つであり、ここにあるスペルミスは日本全国に波及してしまったと考えられます。これは牧野先生のミスというより入手した資料のほうが間違っていた可能性もあるのですが、いずれにしても日本で最も有名な図鑑に入り込んでしまったミスなので、他国よりはるかに多くのミスが発生してしまったのではないかと思っています。

対応策

いずれにしても、このミスは近々修正されなければならないものです。臨時の措置としては、ネット上でアクセスできる情報を検索するシステム側で両学名を表記ゆれとして処理してしまうことです。幸い、この学名で他に紛らわしい植物はなく、表記ゆれとしてまとめてしまっても弊害はないでしょう。

そして、ラベル作成システムでは学名の方をアップデートすることで、人間側のミスを電子化の際にきちんと修正するのが順当と思われます。幸い、最新のYLISTでは修正されており、大学や博物館ごとのオリジナルシステムで使う学名リストに修正を反映させればよいと思います。

牧野先生の宿題

こいつは牧野先生の宿題ではないかと思っています。牧野先生は、植物は見て触って嗅いで舐めて(毒がないものに限る)五感で学べと仰っています。図鑑も舐めるように見て、ミスがあれば直していくのが後輩の務め、という心づもりで研究していきましょう。



チェックしたデータベース

これらを検索して、イチョウウキゴケの名前がヒットしたものだけ上に列挙しています。ここにない博物館や大学は未チェック。ちなみに、調査開始したのは2021年で、その後沖縄県立博物館・美術館などは2023年時点で修正されており、各地で気付いた方により確実に直されつつあるようです。

徳島県立博物館 → サーバー運用中止中につき不明
国立科学博物館 → 問題なし
千葉県立中央博物館 → 問題なし
ミュージアムパーク茨城県自然博物館 → 問題なし
群馬県立自然史博物館 → 問題なし
新潟市立総合教育センター 植物資料室 → 問題なし標本自体なし
福島大学共生システム理工学類生物標本室植物標本 → 国立科学博物館やGBIF(地球規模生物多様性情報機構)にデータを提供しているらしいので、おそらくイチョウウキゴケ自体がない
信州大学植物標本庫 → 問題なし標本自体なし
鹿児島大学博物館 維管束植物DB → 問題なし標本自体なし
名古屋大学博物館 → 問題なし標本自体なし
秋田県立博物館 → 問題なし(データはサイエンスミュージアムネットのみ)
富山市科学博物館 → 問題なし(データはサイエンスミュージアムネットのみ)
兵庫県立人と自然の博物館 → 問題なし
帯広百年記念館 → 問題なし(データはサイエンスミュージアムネットのみ)
相模原市立博物館 → 問題なし(データはサイエンスミュージアムネットのみ)
栃木県立博物館 → 問題なし標本自体なし

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