戦後75年というけれど・・8

今年93歳になる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー。昭和20年8月15日の翌日からの大混乱の日々も冷静に記憶していた。

【終戦後の混乱】

玉音放送を聞いた次の日、北京北部の都市張家口から、荷物やひとで山盛りになった貨車が続々と天津駅に到着し大混乱が始まりました。我先に下車を争う怒号や女こどもたちの悲鳴、多くの喧騒など。逃れてきたひとに聞いたら、「ありったけの貨車を提供するから30分以内に張家口から脱出よ!」との守備隊司令官の命令があったらしいとのことでした。

張家口周辺は、八路軍(中国共産党)の暴動がはなはだしく、八路軍への日本人拉致を防止しようという司令官の決断で、何万人もの日本人の天津への避難が始まったのでした。

避難した人々は天津駅到着に安堵の感涙でした。それは避難に乗り遅れた同僚たちへの拭いきれない哀惜感ゆえのことだっったと思います。彼らとて、それぞれが故郷から離れて大陸で成功しようと立志した私と同じ境遇のひとたちです。

敗戦という悲惨を国民に押し付けた責任は誰に、そして、どこにいったいあるのでしょうか?10代の私には、一生の課題を課せられた思いでした。


玉音放送を聞いたものの、私たち部隊にはまだ解散指令は出ていません。毎日、武器装備そのままで平常の宿営地警備に余念がありませんでした。9月に入ってから、私たちは部隊宿営地である北京近郊の盧溝橋(ろこうきょう)の近く長辛店(ちょうしんてん)まで貨物輸送を編入し天津駅を出発しました。

途中、八路軍による鉄道爆破による貨車の脱線事故があり、戦車の底で昼
寝をしていた兵士が、頭蓋骨骨折の重症で即死しました。たまたま輸送に関わった20名ほどの兵士のなかに僧職出身者がおり、読経のもと火葬、荼毘(だび)に付すことができました。

そして、長辛店に到着後、日常の兵営生活に復帰した私たちは、兵舎とそこから少し離れた将校官舎の警備が日課となり、私は週番する営門の衛兵司令の役をこなすだけの日々でした。

当時中国は、八路軍(中国共産党)と蒋介石(しょうかいせき)率いる中国国民党との戦いが続いており、私たち野砲部隊は、両方の軍隊から編入勧誘の熾烈さに相当手こずりました。中国人が恐れる日本の野砲の取り扱いかたを熟知している日本兵が欲しかったのでしょう。

監視の日本兵士が拉致されるか、あるいは自らが志願して行ったのか、兵士の行方不明者が続出しました。ある中隊の曹長が公用腕章で外出し帰隊しなかった例もありました。おそらくは八路軍の留置作戦に嵌(はま)ったのだと思います。

いったい、なんのために私たちは戦争し、どこのために戦わなけれ
ばならないのでしょう。10代の私は腑に落ちない思いでいっぱいでした。・・・つづく

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