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「Snitch& Snatch」 須藤古都離

「逃げろ!」
 首相官邸から飛び出したウェスは向かいの通りで待っているホックニーに指示を出したが、ホックニーの反応は鈍く、官邸前の階段を一気に飛び降りて駆け抜けたウェスが彼の背中を軽く叩くまで走り出そうとしなかった。夜の闇を照らすものは薄い月明かりのみで、街に人影はなかった。ウェスが後ろを振り向くと、開けっ放しの官邸玄関から一機の〈虎〉が恐ろしいスピードで二人を追いかけて来ている。トップスピードの〈虎〉から逃げられる訳がない。石畳を切りつけるような鋼鉄の爪の音が、夜の静寂を突き破る。〈虎〉の内部で高速回転するモーターが唸りをあげ、冷え切った十二月の空気に白煙の排熱が立ち上る。肩越しに振り返って〈虎〉を確認したホックニーが、含み笑いを浮かべながら足を止めると、〈虎〉に向き合うように腰を少し落として拳を握った。
「馬鹿野郎! 逃げろって言ったろ!」ウェスは〈虎〉に挑もうとしたホックニーに怒鳴りつけたが、元傭兵の工作員は聞く耳を持たなかった。
 〈虎〉は七メートル以上も離れた場所からホックニー目掛けて飛び掛かったが、ホックニーはそれを紙一重で横に避けて、〈虎〉の側部に掌底を叩きつけた。ホックニーの右グローブから青い閃光が放たれ、〈虎〉の機体全体を駆け抜けた。アカウントを攻撃されて動かなくなった〈虎〉はガシャリと音を立てて道路に倒れた。「虎の一匹ぐらいどうってことないさ。こんな玩具から逃げ出すなんて、腰抜けもいいところだぜ。お前もこれから俺たちと仕事をやるっていうんなら……」ウェスに不敵な面構えを見せていたホックニーだったが、その後すぐに官邸から十機以上の〈虎〉が増援に飛び出してきたのを見て血相を変えた。
「やばい! 逃げろ!」
「だから、さっきからそう言ってるだろ!」ウェスは再び走り出したホックニーに叫んだ。
 突然、目の前に強い光が降り注いで二人は思わず目を細めた。夜が一瞬で昼に転じたのだ。
「畜生、厄介な事になってきやがったな。もう管理者が気づきやがった」ホックニーは漏らした。
 先ほどまでは月明かりの夜だったのにも関わらず、太陽が真上から二人を睨みつけていた。さらに巨大な鉄板のように黒い壁が上空から四方に落ちてきて、街を外の世界から隔絶した。
「畜生! もうウォールを構築しやがった。いくらなんでも早すぎじゃないか?」ホックニーはまだ遠くにあるが、徐々に近づきつつある巨大な壁を見上げながら悪態をついた。
「クソ、もう逃げらんねえな。アレは手に入ったのか?」
「もちろんだ。全部パクッてきた」ウェスは右手に握った赤いキューブをホックニーに見せた。
「これだけでもボスに転送しちまおうぜ」
 ホックニーはキューブを奪おうとしたが、ウェスはその前にジャケットのポケットにそれをしまった。
「そんなことしてる場合じゃねえよ」
 ウェスは目の前に迫ってくる壁と、後ろから迫ってくる〈虎〉の群れに目をやると、「こっちだ」と足元にあるマンホールの蓋を持ち上げようとした。ウェス一人では持ち上がらなかったが、ホックニーのグローブがそれを軽々と地面から引き剝がした。ウェスが下水道に飛び込むと、ホックニーはマンホールの蓋を閉めた。ホックニーはズボンから溶接棒を一本取り出すと、指を蓋に沿って滑らせ、下から溶接を施した。溶接が終わるやいなや、マンホールの蓋をこじ開けようとする〈虎〉たちの爪の金属音がガンガンと鳴り響いた。
「抜けられそうか?」下まで降りてきたホックニーがウェスに声をかけた。
「もう少し時間がかかるが、俺なら穴を開けられる」ウェスはディスプレーから目を逸らさず、左腕に埋め込まれた端末のキーを叩きながら言った。
「じゃあ念のため、その間にデータをボスに転送しておこう」
 ホックニーはそう言いながらが、ウェスのポケットに手を伸ばした。
 だが、ウェスはホックニーの手を払いのけ、鋭い視線で睨みつけると「邪魔をするな!」と一喝した。
「お前、データを一人占めするつもりじゃあないだろうな?」ホックニーが低い声で脅すように言ったが、ウェスはそれに応えなかった。
「よし、帰るぞ」
 ウェスはホックニーが頷いたのを確認すると、エンターキーを叩いた。

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「全く、アブねえところだったぜ」
 ホックニーは大きくため息をつくと、側頭部のソケットからジャックを引き抜き、目の前のデスクに無造作に投げ捨てた。ウェットティッシュを箱から一枚取り出すと、服を脱いでから全身に滲み出た脂汗を拭き取った。
「なんだよ。ずっと見張ってるって言ってたくせに、トニーがいねえじゃねえか」
 ホックニーは事務所を見回して、広い部屋にウェスと二人きりであることに気が付くと言った。
「糞してんだか、それとも逃げ出しやがったか。どっちにしろ、あとでシメてやらねえとな」
 ホックニーは舌打ちしてから立ち上がると、ジャックを引き抜いたばかりのウェスに詰め寄った。
「もういいだろう。お前がちゃんと仕事したか、確認させろ。盗んできたデータを俺の端末に転送しろ」その声には有無を言わさぬ圧力があった。
「待ってろよ、今から送るから確認してくれ」ウェスは左腕に埋め込まれた端末を操作しながら言った。
「てめぇ……」
 ウェスから送られてきたデータを見るなり、ホックニーは唸り声をあげた。「ふざけてんのか? よほど死にたいらしいな」
「ふざけてんのはそっちだろ? 好き勝手やりやがって。今送ってやったのは一部だ。お前らの犯罪行為の証拠は全部揃ってるんだよ」
「タレこむつもりか?」ホックニーは鼻で笑った。
「お前だってハッキング常習犯じゃねえか。官邸だけじゃねえ。まさか忘れたわけじゃねえだろ?」
「俺がやった証拠は一つも残してねえし、そもそも官邸には潜ってねえ。お前にそう思わせただけだ。お前は夢を見てたんだよ。お前は俺が作ったモジュールの中で寝てるだけなんだよ」
「お前は使えると思ったんだが……」ホックニーは困ったと言わんばかりに肩をすくめた。「俺らに従う気がねえなら、」ホックニーは瞬時にホルスターに手を伸ばし、ウェスに銃口を向けると引き金を弾いた。銃弾はウェスの額を打ち抜き、ウェスは顔面から血を流し、後ろ向きに倒れた。「従わねえなら死んでもらうだけだ。悪く思うなよ」ホックニーは捨て台詞を吐き、銃をホルスターに戻すと事務所から出ようとした。
 だが、どうしても部屋から出られなかった。事務所のドアノブが壊れているのか、いくら回してもドアは開かなかった。ホックニーは苛立って、その巨躯でドアに体当たりしたが、ドアはビクともしなかった。
「さっき言っただろ、」背後から死んだはずのウェスの声が聞こえて、ホックニーは驚いて飛び上がった。「お前は俺が作ったモジュールの中だって」額に穴が開いたままのウェスはホックニーに向かってニヤリと笑った。ホックニーはまたしても銃をウェスに向け、弾が切れるまで打ち続けた。銃弾はウェスの体を通り抜けていったが、ウェスは微動だにしなかった。状況を掴めていないホックニーは動揺しながらも、長年の経験で身に着けた再装填の動作を正確にこなした。
「畜生! なんで死なねえんだよ!」ホックニーは他にどうしていいか分からず、ウェスに銃を向けた。
「頭の悪い奴だな。俺たちはまだ潜ったままなんだよ」ウェスは銃弾を受けながらホックニーにゆっくりと近づいた。ホックニーは銃を投げ捨てると、今度はナイフを取り出し、素早くウェスの胸に突き立てた。だがウェスはホックニーの攻撃に顔色も変えず、ホックニーの脇腹を右手で軽く叩いた。その瞬間、ホックニーの体を青い光が駆け抜け、アバターの自由が奪われた。床にドシンと音を立てて崩れ落ちたホックニーは、魂が抜けたように無表情になった。
「モジュールの中だと言っただろうが。アバターに攻撃してどうする。アカウントを狙えよ、ガキじゃあるまいし」
 ホックニーは無理やり動こうとしたが、陸にあげられた魚のようにバタバタと身をよじることしかできなかった。
「……なんでだ、なんでこんなことをしたんだ……」ホックニーは少しだけ開いた唇の隙間から声を絞り出した。
「なんでって、これが一番簡単なんだよ。お前らは俺みたいな技術屋を利用しては切り捨てやがる。騙してると思ってる奴を騙すのは楽なんだよ。それに、お前みたいな脳筋野郎を拘束するのは、現実には難しいからな」ウェスは床に寝転がっているホックニーを見下ろすように、しゃがみこんで話した。
「これから一日は動けねえぜ。このモジュールに閉じ込められたまま、外部に連絡すらできない。俺はこれから現実の事務所に戻って、そのまま海外に逃げるぜ。お前らの情報をさっさと売り払って、あと二時間もすれば組織は全滅ってこった。後は気楽な人生だぜ」
「……てめえが〈スニッチャー〉だったとはな……」ホックニーは顔を引き攣らせながら苦笑した。
「残念だがタレこみで消えるような組織じゃねえんだよ。てめえは自分が誰を敵に回したか分かってねえんだ。後で後悔してもどうしようもねえ。楽に死ねると思うなよ」
 ウェスは喋り続けるホックニーの顔面を上から殴りつけた。ホックニーのアバターを青い光が再度包み、今度は完全に動かなくなった。

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 ウェスが側頭部からジャックを引き抜くと、近くのデスクでトニーが慌ててズボンのチャックを閉めた。
「トニー、てめえ。よくこの状況で自分のチンコ触ろうと思えるな。俺たちは命がけで政府にハッキングしてたんだぞ」
「だってあんたらが潜ってもう二日だし、それに後一日は潜ってるって話だったろ? こっちは見張りをしてるだけだから暇なんだよ」トニーは不貞腐れたように言い訳をし、さっきまで自分のチンコを触っていたであろう手でドーナツを掴んで食べ始めた。
「てめえがそんなだから、見張り以上の仕事が回ってこねえんだよ」
 ウェスは舌打ちをし、椅子から立ち上がるとそのまま事務所の出口に向かった。
「そういえば、ホックニーはどうしたんだ?」
 ジャックに繋がれたまま椅子の上でピクリとも動かないホックニーに目を向けると、トニーは言った。
「ホックニーは別の仕事ができたから、まだあっちに残ってる。あと一日はそのままだって言ってたぜ」ウェスはドアの前で立ち止まって言うと、入り口近くに置いてあったティッシュ箱をトニーの顔に投げつけた。
「ホックニーに見られなくて運が良かったな。あいつはてめえの大事な部分をナイフで切り取って口に詰め込むくらいのことはするぜ」トニーがティッシュ箱をキャッチするとウェスはそう言った。
「これからは気を付けるよ」トニーは卑屈な笑みを浮かべながら言った。
「そうだな、せいぜい気を付けな」
 ウェスは緊張を胸の内に隠しながら事務所を後にした。

〈了〉


『Snitch& Snatch』須藤古都離 サイバーパンク(4332字)
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