「遺物(ゆいもつ)」 渋皮ヨロイ
「今年はちょっと辛口だったかね」
去り際にも同じようなことを言って義父は手を振った。先ほどまで義母お手製の梅酒を一緒に飲んでいた。とは言ってもガラス製のお猪口で一杯味見をしただけで、滞在時間は三十分にも満たない。
「今度、ぬか漬け持ってきます、最近、始めてみたんだよね」
義父は玄関先でまだ何か言い足りないように続ける。そうしながらも少しずつ後ろへ退いていく。私は礼を言って、玄関のドアをゆっくり閉めた。
グラスを放置したまま、クローゼットの奥から鉢を出す。キッチンの窓際まで運び、ナギの赤い鉢植えの横に並べた。これは妻が育てていたもので、細くしなやかな茎が伸びている。そこから適切な距離感で艶のある葉が左右に広がる。
その隣に置いたターコイズ色の器からは指が生えている。それが何指なのか、左右どちらの手なのかもよくわからない。どうして五本の指が揃っていないと、もしくは隣に並ぶ指がないと、あやふやになるのだろうか。たぶん、薬指だとは思う。けれど、人差し指のように思えることもある。中指に感じるときは、さすがにどきりとする。
先ほどまで義父が来ていたこと、義母の梅酒を味見したことなどを報告した。指がうねる。思い出したようにナギに水をやる。つるりとした葉の表面をすべり、水滴が下へ落ちる。
少ししか口にしていないのに、アルコールが回り、首の横あたりが熱くなる。義父は辛いと言ったけれど、私には今年の梅酒は甘く感じられた。
妻が亡くなって半年以上が経つ。予兆はなかった。少なくとも私は気づけなかった。妻は出先の冷たい川に身を投げた。比較的発見が早かったとは言え、川下まで流された遺体はふくれ上がっていた。あちこちで損傷も激しかった。一部は魚に食べられたのだろう、という話も聞いた。それを伝えてきた知り合いとは縁を切った。
私も妻の家族も、それぞれが自身を責めた。家庭というものが崩壊しかかった。それをかろうじて阻止してくれたのが、義理の両親だ。私は妻の姓のまま、戸籍上でも彼らの息子として生活を続ける。
遺書はなかった。たとえ私に向けた恨みであっても、妻の思いが何も残されていなかったことは無念だった。けれど、もし実際にそういう文言を目にしたら、それでまた自分自身を責めるのだろう。
放置したままの部屋をようやく整理する。妻の遺品をなかなか手に取ることができなかった。私の持ち物のほうが少しずつ減っていった。よくない傾向にあると思ったけれど、止められなかった。
やがてバスルームの洗面化粧台の棚に手をつける。そこでピルケースのような入れ物を見つけた。緑色のプラスチック製で上半分が蓋になっているのだけれど、外からは中身を確認できない。
私が知っている限り、妻は痛み止め以外の薬を飲まなかったはずだ。恐る恐る蓋を開けると、そこに指が入っていた。私は叫び声をあげた。勢いがついて、洗面台の上でピルケースがくるくる回転した。その様子を眺めながら、これは妻の指だ、と思った。喉の奥がじんじんと熱かった。
死ぬ前に妻が指を切り離していたとは考えられなかった。それなら前もって気づくはずだ。だいたい、遺体はかなり痛んでいたけれど、指は全部残っていた。だからこそ、どうして直感的に妻の指だと信じてしまうのか、自分でもよくわからなかった。
一旦、アイスコーヒーを飲んで気持ちを落ち着けようとする。それでもなかなか浴室へ戻れなかった。さらにコンビニで低アルコールの缶チューハイを買ってきた。それをゆっくりと時間をかけて飲み干した。それからようやく、指に向き合う覚悟ができた。
浴室の台の上で、指の先はちょうど覗き込んだ私の方向を示している。すらりと長く、切断面に汚れもないし、血も流れていない。腐敗の兆候は皆無だ。指輪やマニキュアの飾り気もなく、素の状態だった。それを恐る恐る持つ。しなやかな感触に自分の手先までやわらかくなった気がした。どの指だろう、と戸惑いながらも、妻のものだという確信は揺らがなかった。私は爪のあたりに唇をつけた。泣くだろう、と思ったけれど泣かなかった。
郊外のホームセンターに出かける。小ぶりな鉢を探していると、鮮やかな色に目をひかれた。妻も好きだったターコイズカラーだ。一瞬で気に入って、それを手に取る。黒土とシャベルも選ぶ。
帰宅して、すぐさま鉢に土を入れる。そこに妻の指を植えた。すうっと吸い込まれるように指の一部が土の中に埋まった。指はまっすぐ上を示している。これが成長して、やがて元通りの姿形の妻になると信じたわけではないものの、少しだけ失われたものを取り戻せそうな気がした。
このことを義父や義母にも話せなかった。妻を独占しているようで、軽い罪悪感が生じる。同時に、誰にも理解されないだろう、という思いもあった。どういう犯罪行為かはわからないけれど、激しく非難されてもおかしくない、そんな気持ちも常に抱いていた。
妻が亡くなってから、ずっと放置していたナギにたっぷり水を注いだ。ひさしぶりの水分を思うさま吸い込むように土が濃く染まっていく。それ以降、目覚めたときか、仕事から帰ってきたあとか、眠る前に二つの鉢の様子を見るのが日課となった。指は成長もせず、腐りもしない。
一週間ほど経った朝、ナギに水をやる。角度をつけすぎて、じょうろ代わりのコーヒーポットから水が勢いよく飛び、指にもかかってしまった。
「あ、ごめん」
私は思わず謝った。指がくねりと曲がり、しばらく揺れた。水滴が何粒か、いくつかの方向へ散った。やがて指の動きが止まるまで、私は黙って見ていた。
次第に慣れていくうち、話しかけるようになった。妻の指は応じるように動いた。その意図を私は読み取れない。
「世界で一番、×××を愛しているのは誰だ」
うねうねと指が動き、私をさす。こちらを示したのだろう、と思う。このユーモアに、きっと笑っているはずだ。私は普段から同じような質問をくり返した。ときどきは愚痴も言った。そのときも指は健気に反応した。
違うバージョンの梅酒もあるということで、義母が持ってきてくれた。今回、味見はなしだ。その代わり、ドリップコーヒーをいれた。スイーツの用意はなかったけれど、義母はコーヒーの味を褒めてくれた。
「あの人には辛口のものしか作っていない、って言ってあるんだけど、実はね、こういう甘いタイプもあるので、違いを比べてみて」
義母は少し視線を下に向けたまま言った。赤色のガラス瓶は私達の前に置いてある。義父が持って来たものでも十分甘かったのに、それ以上なのか、と思うと気が重いのか、逆に楽しみなのか、自分でもよくわからなくなり、なるほど、と中途半端な返事をしてしまう。
途中で指の鉢を隠し忘れたことに気づいた。キッチンから別の場所に移ってもらいたかったけれど、うまい誘導の仕方を思いつかない。義母はすでにコーヒーのお代わりを飲み始めている。
鉢を意識すぎないように、しっかりと義母の目を見つめて何かを話そうとする。けれど、なかなか視線は合わず、たいした話題も思いつかない。
かろうじて、近くの総菜屋で売っている和風ピクルスについて話す。そこの味つけが気に入って、最近よく食べる。義母は自家製のピクルスにも凝っているから、試してほしかった。だしの種類が独特な気がする、と自分なりの感想もつけ加える。
「あるいは、お酢からして特別なのかもしれないね」
義母はうきうきした様子で答えた。あるいは、なんて言い回しをするのが意外だった。
窓際の鉢に気づくことなく、義母は帰った。安堵感を抱きつつも、指だけとはいえ実の娘と会わせなかった、という例の罪悪感がこみ上げてくる。その感情もまたどうもピントがぼやけている。お母さん、帰っちゃったよ、と私は言った。鉢の指はいつものようにくねくねと曲がった。
義母からもらった梅酒を味見する。前の「辛口」もまだ残っていた。日常的に飲酒する習慣はないし、妻がいなくなってからはよりその頻度は減った。新しい梅酒はすらすらと飲みやすかった。やはり甘さを感じるけれど、こちらのほうが好みだった。
一杯飲んだところで身体が熱くなる。眉間のあたりがぐいと引っ張られるような重さを感じる。もう少し飲んでそのまま寝てしまおうかと考えたけれど、翌日から出張に行かなくてはならない。その準備を終えるまでは眠りたくなかった。
ナギの鉢にアンプルを挿す。真ん中をへこませて緑色の液体を土に注ぐ。生前の妻の見様見真似でやってみたにすぎず、これで本当に水やりの代わりになるのか、よくわかっていない。それでも前の出張のときは大丈夫だった。
ちらりと指の鉢を眺める。こちらにもアンプルを挿したらどうなるか。指が緑色に染まるところを想像する。そうなっても私は妻の指だと信じて話しかけることができるだろうか。
「これ、いる?」
予備のアンプルを指の前で振ってみる。指は揺れる。否定の意味なのか、逆なのか。もしかして妻は笑っているのかもしれない。決して泣くまい、と思ったけれど、短くほほ笑んだあと、私はひさしぶりに泣いた。
出張から戻ると、まずキッチンの鉢へ向かった。葉の色は鮮やかで、ナギは元気そうだ。隣の鉢の指にも変化はない。ただいま、と声をかけると、何秒か動いた。
疲労がずっしりと全身に重く積もっているようだった。ホテルでよく眠れず、午前中からの長い打ち合わせを済ませて、夜遅くにやっと帰宅した。
出張中、懇親会で大学の教授と話す機会があった。社会心理学を専門としているらしい。私に引き出しがないため、その分野に関して話せることはなかった。ただ、アンバサダーとして新しいプロジェクトに関わってもらうことになっているので、飲み会の席でも引き続き彼女から知見を伺う。アルコールを摂取しながらも、堅苦しい内容のやり取りが続いた。
「結婚生活を続けていくためのコツとか心構えって、何かありますか? ふんぎりつかないこととか、結構いろいろあって」
立ち入った話を急にすみません、と断ってから、その教授は尋ねた。一旦、仕事の話は途切れていた。私の結婚指輪を確認した上での何気ないトピックだったのかもしれない。それでも私は口ごもってしまった。
誰からでもいいから、ずっと妻の存在に触れてほしかったのかもしれない、と思った。私は黙ったまま、わずかに残ったグラスの中身をあおり、口を塞いだ。アバウトな問いに、結局、まともに答えることができない。彼女の具体的な状況を尋ねても失礼はないのだろうけれど、その話題を引き継ぐことも気が重かった。
珍しく、いくら飲んでも酔わなかった。教授はどんどん呂律があやしくなってきた。私には、妻が死んだことを話せなかった。一度気になってしまったあと、どうしても教授の指先に視線を送るのを止められなくなっていた。彼女がいくつなのか、私にはわからない。それでも、鉢に植えた指のほうがずっとみずみずしく、生き生きとしているように思えた。
ナギと指の鉢をテーブルの上に並べた。大きめのグラスにごろごろとした氷を入れ、二種類の梅酒を注いだ。時間をかけて、それぞれの味を確かめる。はっきりとした違いがあるのにどちらも甘くて、口にするたび、濃度が変わったように感じられる。ときどき指に話しかけて、ゆらゆら動く様子を見ていた。
溶けた氷がバランスを失って、片方の透明なガラスの中で音もなく動いた。ねっとりとした梅酒の表面がわずかに揺れた。
私は結婚指輪をひさしぶりに外す。思ったよりも簡単にするりと抜けた。そして鉢から伸びる妻の指にはめる。なめらかに、土のあたりまで落ちた。しばらく眺めて、それを外す。また自分の指に戻した。そのときのほうが物理的な抵抗があって、かなり手こずった。私の薬指をくすんだ銀色の輪が締めつける。曲げたり伸ばしたり、何度かくり返す。痛みはうすく引き伸ばされたように霞んでいく。それからしばらく自分の指と鉢の指を見比べていた。
その間、私は指に向かって何も話さなかった。かける言葉をどうしても思いつかなかった。
『遺物(ゆいもつ)』渋皮ヨロイ 植物のある風景(4900字)
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