「もしも魔法が使えたなら」 橘省吾
5月の終わり。本格的な夏を控えた日曜日の午後二時。季節外れの陽気を避けて、僕は公園の大きな木の木陰で涼をとっていた。樹齢1000年を超えているといわれるその巨木は、まだ中学生の僕を直射日光から守るのに十分な木陰を提供してくれる。
サッと一陣の風が吹き抜け、僕の体表から水分が蒸発していった。とても心地がいい。
その日は慣れない早起きをしたものだから、昼食の後のこの時間、強い睡魔が襲ってきていた。
僕がうとうとと夢の世界に入りかけたその刹那、ザザッバキバキッと木の葉や枝の擦れる音がして、何かが落下してきた。
ゴチン! と盛大な音がする。
頭に激痛が走った僕は、何も言えずに頭の大きなコブを押さえたままうずくまる。
一方、落ちてきた相手の方は「お~痛って~!」と大声で叫んでのたうち回っている。
どうやら相手の頭と僕の頭がぶつかったらしい。
しばらくして、やつは杖を頼りによろよろと立ち上がった。
とてものどかな初夏の昼下がり。公園の草っ原の上には三角帽子を被りシルクのローブを着た少年。それが僕とやつとの出会いだった。
「おい、お前! 名を名乗れ! この無礼者が」
まだ声変わりもしていない幼い声。
「坂本……悠」
「サカモトユウ……変わった名前だな」
「失礼だな。君こそ誰だ」
「俺様はシーザーだ。知らないとは、さては貴様、モグリだな」
「へ、君、有名人?」
こんなガキ、見たことも聞いたこともない。
「ああそうだ」ヤツは心底バカにしたように僕を見ていう。「大魔法使い、ベルナルドゥス家の嫡子シーザー様を知らないとは、ニカラニアの国民として無知も甚だしい」
魔法使い? ベルナルドゥス? ニカラニア?
「君、頭だいじょうぶなの」
さっき僕とぶつかったショックでおかしくなったのかもしれない。
「失敬な。正気を疑うべきは貴様の方だろうに……いや、待てよ」
少年は僕の話に耳を傾ける様子はなく、周囲をキョロキョロ見回した。それから僕の様子や着ているものをじろじろ見て、何かを悟ったようにつぶやいた。
「はは~ん、ここは……ということは異世界に繋がっていたのか」
ちんぷんかんぷんなことをいう小柄な少年を、僕は見下ろす。
「ここは自由が丘公園だけど、そんなに珍しい?」
そんなふうに訳のわからないやり取りをしていたところ、僕と少年との間にひとりの少女が割って入ってきた。
「悠、ダメじゃない。日陰に行かないと熱中症になっちゃうよ」
気がつけば時間の経過によって、僕たちは直射日光にさらされていた。
割り込んできた少女の名は椎名真希。僕よりひとつ下の中学2年生だ。
「ねえ、悠、聞いてる?」
真希も年下のくせに僕のことを呼び捨てにする。が、こいつは幼馴染なので気にしたこともない。
「それが……」
僕は事のいきさつをかいつまんで話した。
「冗談いってんじゃないの。シーザーはアンタのいとこでしょ」
「な……!」
僕は開いた口が塞がらなかった。このガキがいとこ? 真希の方こそ熱中症で頭をやられたんじゃないのか。
ふとシーザーを見ると、ヤツは分厚い辞書のような本と小さな数珠のようなものを手にしてニヤリと笑っている。
……魔法?
「ちゃんとおじさんとおばさんに説明して泊めてあげなさいよ。なんならアタシも一緒についてってあげるから」
真希の力を借りるまでもなく、帰宅してみると両親とも喜んでこの(僕にとって)招かれざる客を迎え入れた。
「大きくなったなぁ」
「遠路はるばる疲れたでしょう」
どうやらシーザーは海外から観光に来た僕のいとこという設定らしい。その日はご馳走が振る舞われた。
翌日から、真希はシーザーと僕をあちこち連れ回した。
「おい、いつ帰るんだよ」
「この世界が気に入った。しばらくは観光させてもらう」
「好きにしろ」
それから数日。観光で飽き足らなくなったシーザーは、僕らの中学校に転校生として入ってきた。きっといろんな人の記憶を改変しているに違いなかった。
そういえばなぜ僕の記憶は改変しないのかを聞いたら、「そんなやつが一人くらいいた方が面白いから」らしい。
シーザーは魔法を使ってありとあらゆるズルをした。運動でも勉強でも人間関係でも、やつの思い通りにならないことはなかった。確かに大魔法使いの家系というだけのことはある。正直ちょっと羨ましかった。
「お前なぁ、大概にしておかないと後で痛い目見るんじゃないの」
「大丈夫大丈夫。俺の魔力を侮ってもらっちゃ困るな」
そういって白い歯を見せてニカっと笑う。やつの無邪気な笑みを見て、それ以上は僕も強くいえなかった。
最初は小憎らしいただのガキだったが、共に過ごす時間が増え、向こうからもなついてくるようになって自然と情が湧いてくるようになった。
シーザーはもう従兄弟というより兄弟のようだった。真希たちと同じく僕もいつの間にか魔法にかかっていたのかもしれない。
その日の朝、いつもと同じように、僕、真希、シーザーの3人で登校していた。夏服を着て横並びに歩く中、僕だけがひどく眠そうだった。
シーザーはこっちの世界のネットゲーム(特にバトルロワイヤルもの)がいたく気に入り、前の晩の戦績について得意げに話していた。
「悠のやつ、全然弱いんだぜ。せっかく仕留めてやろうとしてんのに俺に見つかる前に瞬殺されてやんの。俺を爪の垢でも飲ませてやりたいよ」
「お前の強さはチートすぎるんだよ。魔法……」
「はいはい。負け惜しみ~」
「二人ともそんなに目の下にクマ作って。どうせ真夜中までやってたんでしょ。今日の授業居眠りしても知らないから」
真希がくすりと笑う。
「だってさ。シーザー」
「悠、アンタにいってんの」
真希のツッコミのあと3人でケラケラと笑った。
とその時、僕の視界に、ボサボサ頭でジャージ姿の長身の男が割って入ってきた。
(あれは確か……八木さんとこの)
世界の全てを敵に回したような目をした男の名は八木俊一。受験に2回失敗して、今も浪人生をやっている人だ。
昔は明朗快活なリーダー格の少年で僕ともよく遊んでくれたのに、なんでも中学のとき振られた女の子に暴言を吐いて女子みんなから無視されるようになり、挙句の果てに第一志望の高校に落ちてからというもの、坂道を転げ落ちるように性格がすさんでいったらしい。ま、全部SNSでの噂だからどこまで尾鰭がついているかはわからないけど。
その八木が、ふらふらと僕らに近づいてきた。心ここに在らず、視線は宙をさまよっている。手には……包帯を舞いた棒状のものが握られている。八木はその包帯をサッと取り払った。
「……!」
夏の朝の日差しを受け、刃がギラリと光る。
「逃げろ!」
というべきはずの僕の口は、しかし呪いでもかけられたかのように動かない。脚は震え、心臓は鼓動を早めている。
シーザーが振り返り、八木がいることに気がついた。
「おい、アイツ、ヤバくないか」
「え?」
真希も振り返る。
僕ら3人と目が合い、自分のことに気づかれたと悟った八木は、地を蹴って駆け出した。一気に距離を縮めてくる。
八木の狙いは一番小柄なシーザーだった。凶刃が、まだ小学生のようなあどけなさを脱しきれていない少年の胸に突き立てられようとしていた。
「危ない!」
僕はほとんど条件反射的に、シーザーの身代わりになる格好で八木の前に立ち塞がった。
サクッ
そんな音が聞こえた気がした。
痛みが僕の全思考を支配する。しかし同時に、その痛みを吸い上げるように意識が遠のいていく。
「あ……あ……」
僕は喋ろうとするが、何ひとつ言葉にならない。
「キャーーー!!!」
真希が叫ぶ。
八木は僕の胸から引き抜いたナイフを、地面に放り出して逃げた。
「悠! おい、悠!!」
シーザーが叫ぶ。その目には涙が滲んでいる。
路面には血が当たり一面に広がっていく。
「悠! しっかりして! 悠!」
僕は救急車を呼んでほしかったが、二人とも気が動転しているのだろう。シーザーのほうは救急車すら知らないのかもしれない。
僕の身体からは血液がどんどん失われ、まもなく心臓が完全に停止した。
そう、僕は死んだ。
真希はようやく携帯で救急車を呼ぶ。おいおい今頃かよ。
シーザーは例の辞書のような分厚い本を鞄から取り出し、目的の箇所を探し当てて何やら長ったらしい呪文を唱え始めた。
「この世界の万物に満ちるあまたの精霊たちよ……」
と唱え、最後に左右の手を複雑な形に組み合わせた。「ヴィーテ!!」と叫んで僕の心臓の辺りにかざす。
シーザーの手がほんのり光る。
しかし、光はすぐに消えた。
「何やってるの?」
真希が涙声で問い返す。
「見てわかんないのかよ。生き返らせるんだよ」
シーザーは同じ動作を繰り返す。
「ヴィーテ!!」
だが何度やっても結果は同じだった。
真希はシーザーの肩をつかんで揺さぶった。
「やめよ。そっとして、救急車を待とう」
それでもシーザーは呪文を繰り返し唱えた。
繰り返して繰り返して、そしてシーザーは気づいた。こっち側の世界では、一度失われた命は元には戻らないことを。それがこの世界の法則であることを。
「こんなのないよ。魔法を使っても生き返らないなんて、こんなの無理ゲーじゃんかよ」
その場に崩れ、シーザーは声を上げて泣き始めた。そしてその涙を消し去るかのように、にわか雨が降り始めた。
そのあと八木はすぐに捕まり、テレビのニュースでも取り上げられるほどの事件になった。
僕はといえば遺体安置所に横たえられていた。司法解剖の後、僕は無言の帰宅をするだろう。
シーザーと真希は、例の僕らが出会った公園に来ていた。
「ねえ、シーザー。こんなとこに来てどうするの」
「真希姉ちゃんには言ってなかったけど、俺、魔法使いなんだ」
「え?」
「だから俺はなんとしても悠を助けなきゃいけない。力ある者の義務、ノブレス・オブリージュってやつさ」
シーザーはこっちの世界に来た時に落ちてきた、あの樹齢1000年の巨木に登り始めた。
「ねえ、危ないよ」
シーザーは真希の心配をよそにせっせと登り始める。
高い枝に腰掛けて休んだシーザーは、眼下の真希に話しかけた。
「俺わかったんだ。なんでこっちの世界に来れたか」
「……」
「この木が呼んでくれたからだと思う。こっちの世界ってさ、万物に精霊は宿っていなくても、この木みたいな植物には記憶もあるし、心もあるんだ」
真希はじっとシーザーを見上げて聞いている。
「こっちの世界に転生する時、この木の持っている1000年分の記憶が俺の中に入ってきたんだけど、その中には俺よりもっともっとすごい大魔法使いを転生させた時の記憶があったんだ。その大魔法使いは俺のご先祖様で、蘇生の術を使ってこっちの世界でたくさんの木々を復活させた人なんだよ。だから」
「でも人間と木は……」
「おんなじだよ。人間も木も、同じ生き物だよ」
「どうするの」
「元の俺の世界で見つけてくる。異世界でも使える人体蘇生の魔法を」
遠くで子供たちのはしゃぐ声がする。生命力に溢れた声だ。
「待ってて、真希姉ちゃん。必ず戻ってくる。戻ってきて悠を生き返らせる」
「うん。待ってる。きっとだよ」
「ああ、きっと」
その時、さっと風が吹き抜けた。
長い髪を押さえた真希が再び木の枝を見上げた時、シーザーはもういなかった。
「頼んだよ、シーザー」
真希はそういうと、目を転じて空を見上げた。
まだ始まったばかりの夏の青空は、どこまでも青く澄みきっていた。(了)
『もしも魔法が使えたなら』橘省吾 植物のある風景(4553字)
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