「ユグドラシルはバロメッツの夢を見るか」 だんぞう
屹立する巨大な木の根に囲まれ曲がりくねった通路。
その天井は高くはあるが、大樹の幹であり空は見えない。
床は湿り気を帯びた腐葉土で、仄かに発光しているのは腐敗菌の分解による副産物だ。
そんな薄暗い迷宮をワンピースのような薄衣一枚羽織っただけの少年少女たちが一列になり黙々と進んでいる。人種は様々、年の頃は十代後半。
ふと一人の少女が隊列を外れ木の根を登り始めた。白髪碧眼の美しい少女。何人かが一瞬だけ見上げたが、すぐに視線を足下へと戻す。簡単にくるぶしまで沈む歩きづらい地面の方へと。
隊列の先頭が通路を抜け、大きな広間へと着いた頃、長く伸びた隊列の殿を歩いていた黒髪の少女は度々振り返っていた。彼女が進むにつれ、今まで歩いていた道が消えるためだ。
道の両側にて壁を成す木の根は、隊列が過ぎるとジッパーを閉じるかのように重なり合ってゆく。
背後にそのような景色を見た黒髪の少女は、足下ばかりか周囲へも頻繁に気を配るようになり――そして見つけた。右側の壁の、彼女の跳躍力では届かない高みに、人の白く細い手首から先だけが木の根の隙間よりはみ出ているのを。
「えっ」
黒髪の少女は思わず声を漏らした。小さな声。だが彼女の前を歩く数人はそれに反応して立ち止まり、少女の目線を追い、白い手に気付き、再び少女を見て、その背後の道が閉ざされていることにまで気付いた。
一人の少年が突如、前を歩く者を押しのけて走り出した。通路は人がすれ違える道幅はあったのだが、その少年に数人が続いたため急な混雑からパニック状態となった。
黒髪の少女はその騒乱からは一歩引き、だが隊列から離されない速度で最後尾を守り続けた。
既に数百人が集まっている大広間は、壁と床は通路と同じ構成物だが、天井は彼らが視認できないほどに高く吹き抜けている。
そこへ、かつて一列だった集団が奔流となり勢いよく流れ込む。彼らは押し合いながら扇状に広がってゆく。何割かは転び、押し倒され、踏みつけ、踏みつけられ、混沌の人溜まりの様相。
それらを冷静に眺めながら黒髪の少女が到着すると、通路を成していた木の根が動き、通路は閉じた。
「どういうこと?」
「採用試験じゃなかったの?」
「さっき通路で死体見たぜ!」
「国際機関が殺人だと?」
「ちょっと待て! なんだあれ!」
彼らが口にした言葉は様々な地域の言葉。だが互いにその意味が通じていることに気付く者は少ない。
にわかに騒がしくなった彼らが一斉に息を呑み静まり返ったのは、彼らの頭上3メートルほどの高さに突如浮かんだ青白い光球のせい。
光球は低い振動音とともに宙空に留まり、数秒で消えた。
「はい、注目」
落ち着いた、よく通る声。
声の主は玉ねぎ頭のコーカソイド女性。草で編んだ服の上から樹皮のような靴と鎧とをまとい、手には加工の施されていない長い木の杖。
その後ろには同じ格好の男性が二人、ブロッコリー頭のネグロイドとアスパラガス頭のモンゴロイド。三人とも二十代半ばほどの顔つき。閉じた通路の、大広間を挟んだ真向かいの壁、木の根が一瞬だけ開いた隙間から現れた。
少年少女たちの中に「エルフだ」「本物のエルフだ」というざわめきが広がる。
「ここまで到着できた方々は全員採用です。ただし守護者特別枠は三名のみ。残りは端末係としての採用となります。私たちの持つそれぞれの杖に最初に触れることができた方を特別枠とします」
玉ねぎ頭の女性が杖を高く掲げると、後ろの男性二人は互いに背を向け、広間の壁沿いに歩き始めた。
ほんのわずかな間を置いて、少年少女たちのほとんどは三つの大きなうねりとなってエルフたちへと駆け寄った。
はじまりは、ささやかな生体コンピュータだった。
植物内にある電気の流れを用いたもので、複数の観葉植物を用いて8ビット相当の演算がやっとというもの。
この生体コンピュータは特に植物コンピュータと呼ばれ、環境に配慮した未来型コンピュータとして注目されたが、長時間の記憶を保持することが困難なため実用化は絶望視され、趣味のモノとしてごくごく一部の人に受け入れられるに留まった。
しかし稼働に電力を使用しないことや、植物の種類を問わず数を増やすことで演算力が簡単に上がること、演算結果のアウトプットを植物に流し込んだところ植物の成長へ影響を及ぼせることなどがわかり、とある企業が大規模な植物コンピュータ園を構築した。
世界が気付いたときにはもうその企業は異常なほど成長した大樹の森に囲まれていて、世界中の植物を植物コンピュータ化して繋げていた。
植物コンピュータの伝達力は凄まじく、一定量の植物があれば離れた場所へも非接触にて演算結果を伝えることができ、アウトプットも植物自体への操作命令のみならず、空中放電すらも可能とした。
この空中放電――通称ウィル・オ・ウィスプは電磁パルス同様の効果を持ち、ある日突然に世界中の軍事関連施設を沈黙させたほど。
その企業は、世界に混乱をもたらしたお詫びとして、その年、世界中の農作物を豊作にした。これは豊作になった場所が全て彼らの意思一つでどうにでもできるという表明であった。
企業は自分たちを国際機関として認めるよう発信し、これに異を唱えた幾つかの大国の原子力発電所と、その国の指導者の居た建物が一瞬にして緑に覆われ、結果として彼らの主張は平和的に認められた。
環境協力機構、それが企業の今の形である。
ECO発足以来、極端な不作がなくなったばかりか地球緑化が劇的に進み、空気中の二酸化炭素濃度が百年分ほど戻されたという事実は、大半の人に好意的に受け入れられた。
ECOはその独立性を保つため、世界中から職員を募った。
その職員に植物コンピュータがインプラントされているというニュースが広まる頃には、ユグドラシルと呼ばれる植物コンピュータ拠点は世界中に増園されていた。
巨大な野菜をカブリモノのように頭部にインプラントしたECO職員はエルフと呼ばれ、植物コンピュータと直接やりとりができるエルフ語という特殊なマシン言語を用い、ユグドラシルを守るだけではなく、地球規模での平和維持活動に加担した。
植物の近くで行われた会話が聞かれているという噂が広まり、弱者は植物へ「密告」をするようになった。実際、ウィル・オ・ウィスプと緑の檻が各地で人を傷つけずに制圧を行い、本物のテロリスト集団が半減するほどだった。
古い世代が不安を募らせる中、若い世代からは熱狂的な支持を集め、それがまたECOの拡大へとつながる。平和テロという単語が生まれたのもこの頃だ。
世界は確実に平和へと収束していると思われた。植物の動力についての秘密が暴露されるまでは。
一人のエルフが、植物外皮に覆われた女を一人連れてユグドラシルを脱走した。
二人はECO勤務以前は恋人同士で、就職後は異動により会えなくなった。エルフとなった男は恋人を探し続け、ある場所で恋人がトウモロコシのように植物外皮の中に閉じ込めているのを発見し、それを周囲から切り離し、ユグドラシルを後にした。
彼は各国のマスコミを集めて内部事情を説明し、切り離したことで既に絶命してしまっていた恋人の遺体を前にECOの危険性を説いた。だが会見途中にウィル・オ・ウィスプが発生し、男は急死した。
二人の死体はすぐに解剖され、二人とも植物の細かな根が脳にまで達していること、女の方は植物から養分を受け取り、排泄物や老廃物を植物へ栄養として還元する役目を持たされていたことなどが解明された。
女は植物を急激に成長させるための栄養ブースターであり、植物コンピュータには不得意な記憶領域でもあった。ユグドラシルという神の領域に踏み込んだ植物コンピュータに対し、献身的な子羊のように盲従している様、そして何より植物に包まれた外観から、女の状態は「バロメッツ」と名付けられた。
バロメッツというのは、かつて中世ヨーロッパにおいて誤解より生まれた伝説――当時のヨーロッパ人は木綿を知らなかったために解釈された羊の成る植物よりの引用だ。
その後、バロメッツは端末オペレーターのような存在で、正規の手段を取りさえすれば危険など一切なく着脱可能であることがECOから正式発表され、それ以降は一人の脱走者も出ていない。
三人のエルフたちを追いかけて広場を駆けずり回っている少年少女たちの数はかなり減っていた。
疲労のあまり腐葉土に突っ伏す者、エルフを追う争いの中で怪我をさせられた者、周囲を蹴散らし逆に返り討ちに合った者、身体能力差を感じ早々に諦めた者、元々エルフよりバロメッツを希望していた者。
「はい。君、合格」
ブロッコリー男が杖を放して拍手した。
最初に杖をつかんだのは白髪碧眼の色素の薄い美しい少女。
少女は杖を握りしめ、今はもう閉ざされている通路を見つめた。隊列を外れたあの少女の双子の妹だった。
「君も合格」
間を空けず玉ねぎ女の杖をつかんだのは、逞しい褐色肌の上半身を露わにした少年。
他の少年少女たちが採用試験の最初に与えられた服をそのまま着ているのに比べ、彼だけは動きやすいよう服の一部を裂き、褌のように腰に着用し、残った部分は手に持ち武器のように振り回し、見事杖を獲得したのであった。
この二人のエルフに食らいついていた少年少女たちが残されたエルフへと視線を向けたちょうどそのとき、最後の一人も決まった。
隊列の一番最後を歩いていた黒髪の少女だった。
遥かなる高みからロープよりも太い蔦がいくつも降りてきて、エルフたちはブランコのようにその蔦へ腰掛ける。三人の合格者たちも同様に腰掛けると、蔦はみるみるうちに彼らを高みへと運ぶ。
ブロッコリー男とアスパラガス男にカリフラワーとホワイトアスパラガスとどちらをインプラントしたいかと熱心に詰め寄られている白髪少女は愛想笑いを浮かべ、褐色の少年は好奇心の赴くままに落ち着きなく周囲を見回し、黒髪の少女は思いつめた表情で虚空をじっと見つめていた。
「着いた。これから君たちにはエルフ・インプラントを処置する」
まだなお頂点の見えぬ大樹の幹に空いた巨大な樹洞へと蔦が六人を運ぶ。
中は薄暗く、木の香りが濃い。
「広場でのように扇動するつもりなら無駄だよ」
ふいにブロッコリー男が口角の片側をつり上げた。
白髪少女の笑顔がヒクつく。
「意外と知られてないようだがね、植物コンピュータは共感生成が得意でね。君のような天然のテレパスはかつてオカルトの類いとして扱われていたが、今や科学でそれができるんだ。ウィル・オ・ウィスプの出力をごくごく微量へと絞り込み、対象の脳内電気回路を刺激して偽記憶を生成し、繰り返せばやがて本当の記憶として定着する。ああ、もう気づいていると思うが、同様の方法で筋肉も刺激できてね。というか異なる言語で会話が通じている時点で気づいてほしかったな」
ブロッコリー男のウインクを、褐色の少年も、黒髪の少女も、目を見開き硬直したまま眺めている。
「ふむ。少年とそちらの少女の方は敵意なしと。まあ今のエルフはユグドラシルに対する反逆行為へは思いが及ばないようになっているからインプラントを済ませば問題はないが……どうしてこんなことをだって?」
今度はアスパラガス男が白髪少女の瞳を覗き込む。
「規模を広げるにはバロメッツが大量に必要なのだ。ユグドラシルの技術を外へ持ち出さんと君らのような優秀な人材を大量に送り込んでくださる各国には本当に感謝している。バロメッツにさえ不適格な方々にはそのまま栄養となっていただく道も」
「無駄話は以上だ」
玉ねぎ女の一言で場が静まりかえる。
奥から更に何人かのエルフが現れ、三人の少年少女たちを連れ去った。
植物を経由して世界中へとネットワークを広げ、情報収集し、ユグドラシルやECOへの敵対行為を検知するや否や、関連する電子機器を破壊し、植物の成長と人類の肉体や思考とを操作して、絶対的な支配力を誇っていた植物コンピュータ。だが、その終焉はあっけなく訪れた。
世界各地のユグドラシルへ送り込まれた優秀な少年少女たち、彼ら自身も知らずにいた、物理的に埋め込まれていた小さな虫の卵によって。
エルフやバロメッツとしてユグドラシルへ取り込まれた後で卵は人知れず孵化し、もはや単なるコンピュータ部品と化していたECO職員たちを糧に爆発的に繁殖し、内側から植物コンピュータを破壊していった。
ユグドラシルは人類に次々と虫の駆逐を命令し、このような企てが二度と起きぬよう全世界の電子機器の破壊と緑化とをもたらした。
人類文明は黄昏を迎え、大きな眠りについた。
<終>
『ユグドラシルはバロメッツの夢を見るか』だんぞう 植物のある風景(5200字)
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