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あれから20年 中越大震災

20年前の今日。2004年(平成16)10月23日(土)、17時56分。新潟県中越地方を震度7の大地震が襲い、死者68人、負傷者4,805人の大惨事となりました。
中越大震災からもうすぐ20年の10月21日。旧・山古志村と小千谷市の震災の跡を訪ねました。

旧・山古志村木籠の水没家屋

旧・山古志村(現・長岡市)木籠(きごめ)は地震の際に発生した土砂崩れで集落を流れる芋川がせき止められて「土砂ダム」が形成され、家屋が水没しました。
水没家屋は震災を物語る遺跡として保存されています。

木籠の水没家屋
木籠の水没家屋
土砂ダムの跡

今は土砂ダムの水はほとんどひいていますが、画像の谷底の木や草が茂っている場所は、土砂ダムでした。
土砂ダム跡には新しく橋が架けられましたが、橋のたもとに旧道路の跡が残っています。

旧道路の跡
木籠橋の下流側のたもとに建つ記念碑

集落背後の山には、震災から20年後の今も生々しく土砂崩れの痕が残っています。

集落背後の山に残る土砂崩れの痕

そして、土砂ダムの一部は下流側に今も残っています。

今も残る土砂ダム

小千谷市塩谷の三児童の慰霊の碑

強い揺れに見舞われた小千谷市塩谷では多くの家屋が倒壊し、6年生男子児童と6年生女子児童、5年生男子児童の3名が犠牲になりました。
塩谷集落の入り口には、地震の犠牲になった3人の児童の慰霊碑が建っています。

三児童の慰霊の碑

慰霊碑の左側に建つ「慰霊の日」の碑文です。
”慰霊の碑 -祈りと誓い-
平成十六年十月二十三日 夕刻。突如 中越大震災勃発。空前絶後の災禍となる。
一瞬にして山容激変する自然崩壊で、農地・道路・水源・電気通信・・・・あらゆる生活基盤が破壊される中、家屋全壊によって三名の児童の尊い命が奪われるという最悪の大惨事となった。
ここに聖観音菩薩の慈悲のもと、三名の児童を悼み、慰霊鎮魂の祈りを捧げるとともに、塩谷町民一心の復興を誓い、この碑を建てる。
平成十八年七月吉日 塩谷町民一同”
※「慰霊の碑」には地震の犠牲となった3名の子どもの名前が記されていますが、ここでは名を伏せました。

塩谷集落
塩谷集落

慰霊碑の前では、毎年10月23日の震災発生時刻に、地区民や亡くなった子どもたちの同級生、通っていた小学校の現職員や旧職員が集まって慰霊式が催されています。

妙見メモリアルパーク

信濃川の右岸を通る国道17号線では、長岡市と小千谷市の境界の妙見・浦柄間で土砂崩れが発生し、母子3人が乗った車が巻き込まれました。
当時2歳だった男の子は、東京消防庁ハイパーレスキューによって地震発生から93時間後に奇跡的に救出されました。しかし、お母さんと当時3歳だったお姉さんの生還はかないませんでした。

救出作業の様子
https://sirabee.com/2021/12/10/20162719067/6/

崩落のあった地点は妙見メモリアルパークとなっています。

妙見・浦柄の崩落地点を信濃川上流側から

国道17号線はもともとは信濃川の崖っぷちを走っていたのですが、この崩落で道路が寸断され、崩落地点を新たに切り割りして新しい路線が造られました。

崩落地点と妙見メモリアルパーク
妙見メモリアルパーク
妙見メモリアルパーク 現地解説板
崩落直後の惨状が製版されて保存されています
妙見メモリアルパーク 現地解説板
妙見メモリアルパーク 献花台
崩落地点(上流側から)
崩落地点(下流側から)
立入禁止区域の向こう側は、崩落で埋もれたかつての国道17号線
崩落で埋もれたかつての国道17号線
崩落地点から見る信濃川

中越大震災から6か月後の記録

最後に、中越大震災から約6か月後の震災の爪痕を紹介します。

栃尾市栗山沢付近の陥没した道路

2005年(平成17)4月24日

栃尾市「道の駅とちお」裏山の土砂崩れ

2005年(平成17)5月3日

小千谷市川井の土砂崩れ

2005年(平成17)5月5日

<次回予告>
あれから40年 生涯ただ一度となったカラヤン演奏会
生涯でただ一度の体験となったカラヤンの演奏会。もう40年も前の出来事になりました。

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