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金崎土手の人柱-勘右衛門土手のもう一つの伝説-

8月に鳥取に帰ったときの訪問記で、義民・東村勘右衛門を取りあげました。勘右衛門が洪水に苦しむ農民を救うために造った「勘右衛門土手」も記事で取りあげましたが、そのすぐ近くに人柱伝説があるそうです。

東村勘右衛門

東村勘右衛門は旧八東町東の名主で、鳥取藩最大の農民一揆・元文一揆の指導者として知られています。元文一揆の終結後、首謀者として捕らえられ、弟とともに斬首に処せられました。
前に記したように、洪水に苦しむ農民を救うために土手を築造し、凶作に備えて韮の栽培を奨励したなどの功績もあります。

元文一揆については、くわしくはこちらを。↓
義民 東村勘右衛門・1-元文一揆と斬刑地蔵-|Yuniko note
東村勘右衛門の業績と勘右衛門土手についてはこちらを。↓
義民 東村勘右衛門・2-勘右衛門土手と東村勘右衛門之碑-|Yuniko note

今回鳥取に帰り、鳥取県立図書館で調べ物をしていたら、元文一揆で捕らえられた後の勘右衛門の逸話が見つかりました。
牢内での厳しい取り調べで他の首謀者の名前を明かすように責められても、「今回の一揆は、自分と武源治(弟)の二人で謀ってやったことだ。一緒に捕らえられた仲間は自分の指示に従っただけであり、首謀者ではない」と言い張り、最後まで仲間の名前は明かさなかったそうです。
※勘右衛門がかばった仲間は、結局、首謀者であることを自白してしまい、勘右衛門たちと一緒に斬首に処せられてしまうのですが。

勘右衛門土手
勘右衛門土手

金崎の人柱

勘右衛門土手の近くに、昭和になってから建てられた勘右衛門の顕彰碑があります。その現地解説板の最後に、金崎土手の人柱についての記載がありました。

勘右衛門顕彰碑の現地解説板

字が小さくて読みづらいので、再録します。

むかし、八東川は十数回の洪水を繰り返し田畑を流しました。
金崎の土手も大水が出るとよく流されてしまいました。昔は石を積み上げてそのあいだに砂を入れただけの簡素な土手でした。土手を崩さないようにするには人柱をするしかないと考えられていて、人柱に指名された人は生きたまま埋められ、石を積み上げる土台とされ、その人の上に石、砂等を積み上げて祈るような気持ちで土手をつくりました。そうしてつくった土手が今でも壊れずに田畑や暮らしを守っているのです。

金崎がどこなのかを調べましたが、今の地図には載っていません。「鳥取の悲史」を書く際に大いに参考にしている安陪恭庵の『因幡志』にも、金崎についての記述はありません。
結局、今回現地に行って分かりましたが、勘右衛門土手の近くに架かっている橋が「金崎橋」という名前なので、そのあたりの土手が金崎土手だろうと、勝手に推測しました。でも・・・・金崎橋の近くの土手って勘右衛門土手なのでは?それとも対岸の草に埋もれた土手が金崎土手?
金崎土手の正確な場所は結局分かりませんでした。
人柱の伝説がいつ頃のことなのか。人柱にされたのはどんな人で、何がきっかけだったのか。
この地に秘かに語り伝えられていた伝説なのでしょう。

勘右衛門土手には現地解説板が設置されていますが、そのすぐそばに少し気になる石組みがあります。石組みの周囲には高さ50㎝ほどの四本柱があります。
人柱伝説を知ってしまうと、少し気になる石組みではあります。
野焼き火葬場の跡のようにも、見えなくはありません。

勘右衛門土手の現地解説板の近くの気になる石組み

金崎土手の場所

<参考資料>
・はっとうちょうのむかしがたり⑧(勘右衛門顕彰碑の現地解説板) 平成8年(1996年)3月

次回予告 若桜の身投げ淵

美女の身投げ伝説が伝わる地を紹介します。

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