【極東の見知らぬオケへの客演指揮】チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」/ヘルベルト・フォン・カラヤン&NHK交響楽団【もっともっと低音を引き出させてやる!】
名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが若き日にNHK交響楽団を指揮した貴重な記録です。前記事のピエール・ブーレーズ指揮のモスクワ音楽院管弦楽団の演奏と同じく、一流指揮者の力量について考えました。
1954年4月 カラヤン初来日
1954年4月2日。ヘルベルト・フォン・カラヤンはNHKの招きで初来日しました。当時カラヤンは46歳。第2次世界大戦終結からまだ9年。ベルリン・フィルの常任指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやアメリカのNBC交響楽団を指揮していたアルトゥーロ・トスカニーニはまだ存命でした。
日本は敗戦の傷跡もまだ生々しい、そんな時代でした。
カラヤンは38日間の日本滞在中に、NHK交響楽団を指揮して、東京、京都、宝塚、名古屋で17回の放送とコンサートを行うという驚異的なスケジュールをこなしたのです。
これは、日比谷公会堂で行われたカラヤン&N響の6回目のコンサートの記録です。
曲目と演奏者
ピョートル・チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
NHK交響楽団
1954年(昭和29)4月21日 東京、日比谷公会堂
NHK交響楽団の前身は1926年に結団された新交響楽団。黒柳徹子さんの父君だった黒柳守綱さんがコンサートマスターとして楽壇を引っぱり、のちに小澤征爾の師匠となる斎藤秀雄さんが首席チェロ奏者として活躍していました。
その後、ジョゼフ・ローゼンシュトックやフェリックス・ヴァインガルトナー、ジャン・マルティノンらヨーロッパの巨匠の指導を受け発展しました。そのN響が、カラヤンとの1回目の練習でブラームスの交響曲第1番の第1楽章を通して弾いただけで、クタクタになってしまったという話が伝わっています。それでもカラヤンは休憩時間に指揮者控え室で、こぶしを振るわせながら「もっともっと低音を引き出させてやる!」と叫んだそうです。
当時、演奏に参加した楽員の話は、「(カラヤンに対して)心から恐怖を感じました。むろんいい意味での」「カラヤンの指揮では、弦楽器だってクタクタに疲れました」「でも、カラヤンとやった演奏を後でラジオで聴いてみると、これを本当に自分たちが弾いたのかと思うくらいうまいのです」とカラヤンの指揮の技量を絶賛していました。
(CD解説書より 元NHKミュージアム図書社長の中野吉郎氏)
演奏について
まず、録音はステレオではなくモノラルです。今からちょうど70年前の録音です。しかし、音声こそモノラルですが、70年前の録音とは思えないくらい鮮明です。敗戦後まだ9年しかたっていませんが、NHKの録音技術が超優秀だったことが分かります。
そしてそこからあふれ出す音楽は、まぎれもなくカラヤン独特の音楽です。切れ味鋭く、時にすすり泣くヴァイオリン。強力な金管。地鳴りのようなティンパニ。うなりをあげる低音弦楽器。
これがカラヤンがいつも指揮している手兵ではなく、初めて指揮する、しかもヨーロッパとは異なる文化圏の極東のオーケストラに、自己のめざす音楽や音色を徹底させていることが驚異です。
しかも、この時のNHK交響楽団との一連のコンサートでは、チャイコフスキーの『悲愴』の他に、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第9番「合唱」、ブラームスの交響曲第1番、ムソルグスキーの「展覧会の絵」などの大曲に加え、数々の小品も演奏されています。「悲愴」ばかりをひたすら練習していたわけではないのです。
昨日紹介したピエール・ブーレーズとモスクワ音楽院管弦楽団とのCDは、名指揮者が一流とは言えないオケを指揮して自己の意図を徹底させた演奏でしたが、こちらはヨーロッパの伝統とは異なる異国のオケに、クラシック音楽の真髄と言える名曲を、自己の求める音色まで、しかも短期間に徹底させた驚異の記録の一端です。
カラヤンと映像
この時のカラヤンは、自分たちの演奏がテレビを通じて日本の聴衆に幅広く聴かれていることを知り、クラシック音楽における映像の可能性に着目したとされています。
『窓ぎわのトットちゃん』から「練習所」
黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』に「練習所」という章があり、そこに大戦前の新交響楽団のこと、特にジョゼフ・ローゼンシュトックの練習のエピソードが記されています。
・コンサートが終わり、汗びっしょりのローゼンシュトックが黒柳守綱さん(パパ)に握手をしたこと。徹子さん(トットちゃん)がママ(黒柳朝さん)にその理由を聞くと、「あれは、みんなががんばっていい演奏をしたから、ローゼンシュトックさんがパパに代表して”ありがとう”の意味で握手したんだよ」と教えてくれたこと。
・ローゼンシュトックさんはドイツのヒトラーが恐ろしいこと(=ユダヤ人絶滅政策)をしようとするので、日本に逃れてきたこと。そうでなければ、結成したばかりの新交響楽団に来てくれるはずはなく、そのために新交響楽団は急速に力をつけていったこと。パパはそんなローゼンシュトックさんを「尊敬している」と言っていたこと。
・ローゼンシュトックさんは練習所にいるトットちゃんを見つけると、「コニチワ」と面白い日本語で話しかけ、抱き上げてほおずりしてくれたこと。
・ローゼンシュトックさんは背が高くて鼻が高く、銀縁の眼鏡をかけていて、一目で芸術家と分かるとてもいい顔をしていたこと。
・練習所でローゼンシュトックさんは、真っ赤な顔をして何か怒鳴っていることがあったこと。そんな時トットちゃんは、息を詰めて窓の陰に隠れていたこと。
・ローゼンシュトックさんは、ヨーロッパの一流オケに対するのと同じ厳しい要求を新交響楽団に求めたこと。
・ローゼンシュトックさんは、いつも練習が終わると、「私がこんなに一生懸命やっているのに、君たちは答えてくれない」と涙を流していたこと。そんな時は、団員の中で一番ドイツ語が出来るチェロの斎藤さん(小澤征爾の師匠・斎藤秀雄)が「みんな一生懸命やっているのですが、技術が伴わないのです。けっしてわざとではないのです」とローゼンシュトックさんを慰めていたこと。
『窓ぎわのトットちゃん』は何度も読みましたが、印象に残る一章です。
<次回予告>
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