鳥取市の旧丸山火葬場の新たに分かった事実
次回の鳥取訪問では鳥取に残る隠れキリシタン関係の遺跡を巡ってこようと思っていますが、それに関する資料を読んでいて、旧丸山火葬場に関する私の知らなかった事実を見つけました。
丸山の旧火葬場について
現在、鳥取県東部の火葬は因幡霊場で行っていますが、1970年代の中頃までは丸山の旧火葬場で行っていました。鳥取市報等の資料を読むと、少なくとも大正10年頃から火葬場として使われていたようで、50年以上の歴史があったようです。
また、地元で細々と語り伝えられている伝承に、江戸時代から焼き場があったことを示唆する箇所があります。
旧丸山火葬場についてはこちらを →【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡|Yuniko note
地元で語り伝えられている伝承(怪談)についてはこちらを →鳥取市丸山の旧火葬場にまつわる怪談【山陰中央新報「因伯のむかしばなし」より】|Yuniko note
資料から
私が新たに知った事実は次の2冊に記されていました。
・池田藩主と因伯のキリシタン 著:松田重雄 鳥取キリシタン研究会 1972年7月25日発行
・姫路・岡山・鳥取に流された浦上キリシタン 著:三俣俊二 聖母の騎士社 2007年12月1日 第2刷発行
明治初期、江戸時代以上にキリシタンに対する大弾圧が行われていました。長崎の浦上から鳥取藩に送られたキリシタンは、丸山にあった善久寺という寺に収容されました。この善久寺が、火葬場ができる前のこの地に建っていたのです。善久寺が明治3年(1870年)に別の場所に移転し、その跡地が大正10年(1921年)から火葬場として使われたのです。
善久寺については、1795年(寛政7)に成立した安陪恭庵の「因幡志」にも記載されており、江戸中期にはすでにこの場所にあったことが分かります。また、善久寺が移転した後も墓地はこの地に残され、現在も荒れ果てながらも墓石が残っています。
ついでながら、この地はかつては「定ヶ谷」と呼ばれていたそうです。
墓地に隣接して、または墓地の中に火葬場がある例もいくつかあります。
↓
・【越後平野の四本柱火葬場・3】長岡市(旧中之島町)横山の火葬場跡|Yuniko note
・【越後平野の四本柱火葬場・4】長岡市(旧中之島町)長呂の火葬場跡|Yuniko note
・【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・3】八頭町船岡新庄の集落火葬場跡|Yuniko note
・次回訪問予定の鳥取県河原町袋河原の火葬場跡
旧記事の「鳥取市丸山の旧火葬場にまつわる怪談」にあるように「丸山の谷に火葬場の炎と煙が見えた」という内容もある程度裏付けられます。
もっとも、「寺が寺域のすぐ近くに火葬場があることを許したか」という問題も残りますが・・・・
時間の経過を記すと、次のようになります。
1795年(寛政7)以前 善久寺がこの地に存在
1870年(明治2) 浦上のキリシタンを大量に検挙し、善久寺等に送る
1870年(明治3) 善久寺が別の場所に移転。ただし墓地は残る
1921年(大正10) 善久寺跡地に火葬場を建設することが決定
※1870年が明治2年と明治3年になっているのは、当時の日本は太陰暦を使用していたので、グレゴリオ暦である西暦とずれが生じているため。
この丸山の火葬場跡は隠れキリシタン遺跡の調査と合わせて、再訪する必要があります。
ただ・・・・正直言うと、ここは今まで訪れた火葬場跡とは雰囲気が違います。なんというか・・・・私は霊感などはまったくないのですが、この地は「負のエネルギー」ではなく「陰のエネルギー」に満ちている感じです。
明治初期に各藩に配流されたキリシタンは、2歳3歳の幼児も含めてすさまじい虐待を受けたようで、当然虐待死した人も他の配流地と比べてケタ外れに多く、そうした人たちもこの墓地に葬られています。
丸山の火葬場跡で感じる「陰のエネルギー」は、そうした悲惨な歴史にもあるのかも、と感じました。
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