鳥取城の青木の局
鳥取に伝わる人柱伝説として、米子城の人柱の話を紹介しました。
・米子城-人柱にされた娘-|Yuniko note
これは、日本の城の人柱に関する伝説を記した本にはほぼ必ず載っている、その方面ではよく知られた伝説のようです。
一方、地元でひっそりと語り継がれている人柱伝説に鳥取城の青木の局の伝説があります。
鳥取城の青木の局
私が子どもの頃に聞いた伝説です。
鳥取城に入った池田の殿様が御三階櫓の石垣を築くとき、難工事で何度も石垣が崩れた。「これは人柱を立てなぁいけんかも・・・・」という話になり、くじ引きをしたところ、お城に仕える青木の局という女性が人柱に立つことになった。青木の局は泣き叫んで抗議をしたが、その甲斐なく櫓台に埋められた。その後、ぶじに工事は完成したが、青木の局を悼んで新たに拡張した山下の郭を「青木の局」と名付けたという。
いつ頃の出来事かは、伝説の中では語られていません。
カギになるのは、御三階櫓の櫓台が築かれたときのことという伝承と、山下の郭を青木の局と名付けたという伝承です。
鳥取城の御三階櫓が建てられたのも、山下の郭が拡張されたのも、伝承では関ヶ原の戦い後に鳥取に入った池田長吉(姫路城を築いた池田輝政の弟)の時とされているので、伝承に基づけば青木の局が人柱になったのは池田長吉の時です。
一方、最新の研究では御三階櫓の創建も山下の郭の拡張も、その後に鳥取に入った池田光政(池田輝政の孫)の時と判明しているので、それに基づけば人柱が立てられたのは池田光政の時です。
一方、青木の局が人柱にされたのは、1720年(享保5)5月7日の石黒火事で鳥取城が焼け落ち、その後に御三階櫓を再建した時という伝承もあります。
これに基づくと、青木の局が人柱にされたのは、御三階櫓が再建された1729年(享保14)のこと。3代藩主・池田吉泰の治世下でした。
こちらの伝承では、人柱にされた青木の局の怨霊が城内に現れて祟りをなすので、城内に社を築いて青木の局の霊を慰めたと伝えられています。
鳥取城御三階櫓とおさごの手水鉢
鳥取城を正面から見ると、ひときわ目立つ大きな櫓台があります。これが御三階櫓の櫓台です。
鳥取城には山上に天守がありましたが、1692年(元禄5)12月に落雷で焼失し、以後は御三階櫓が鳥取城を象徴する建物となりました。
御三階櫓の櫓台左側の中ほどに、中央に穴の空いた石が見えるでしょうか。これは「おさごの手水鉢」と呼ばれています。上の御三階櫓古写真にも、木の陰に隠れそうになっていますが、それでもくっきりと写っています。
伝承によれば、池田長吉が鳥取城を改築するとき、息子・長幸付きの女房衆だったおさご(お左近)という女性が、美麗な服を着て毎日工事場に現れ、作業員たちを督励し、大いに工事が捗りました。城が完成後、おさごの功績を後々まで讃えるために、御三階櫓の櫓台におさごが使っていた手水鉢を築きこんだと伝えられています。
もっとも、最近の調査ではおさごの手水鉢が櫓台に築きこまれたのは、御三階櫓が再建されたときのことらしいです。これが事実であれば、青木の局が人柱にされたという伝承の時期と重なります。
御三階櫓の櫓台は、1943年(昭和18)の鳥取大震災で大きく崩落し、戦後に積み直されています。この時に、石黒火事の後に櫓台を積み直した旨とその責任者(奉行と石工)の名前を刻印した石が出土しましたが、人骨が出土したということはありませんでした。少なくとも、御三階櫓の櫓台では青木の局が人柱にされた事実はなかったようです。
御三階櫓を再建するときのおさごの逸話が、青木の局の人柱の伝承に姿を変えて伝わったのかもしれません。
1980年代あたりから、鳥取城を建てるときにおさごが人柱になったと記載された城の関連本が出るようになりました。ですが、鳥取市にはおさごが人柱になったという伝説は語られていません。鳥取城の人柱といえば青木の局の伝説で、おさごといえばおさごの手水鉢の逸話です。
鳥取城では、江戸末期の姿を取り戻すべく、木造による伝統工法を用いた完全復元工事が進められています。
鳥取城のシンボルだった御三階櫓が昔日の威容を取り戻す日も、そう遠くないかもしれません。
鳥取城の場所
<参考資料>
・山陰名城叢書3 鳥取城 編:中井均 ハーベスト出版 2022年4月1日発行
・日本怪異妖怪事典 中国 監修:朝里樹 著:寺西政洋 笠間書院 2023年3月5日発行
次回予告 旅の終わりに・1-鳥取の霊峰 大山-
今回の旅の途中で見た大山の姿を、過去に撮影した画像も交えながらお伝えします。