浦富の子育て幽霊-通幻禅師の話-
8月6日から続けてきた鳥取市周辺の斎場・火葬場跡&地域の悲史めぐりは、今回でひとまず最終回となります。
お盆はもう過ぎましたが、最後にもう一つ幽霊の話を。摩尼川の継子落としの滝、網代の虚空蔵山と、悲惨な子殺しの話が続いたので、最後は母親のわが子への愛を感じさせる話です。
1688年(貞享5・元禄元)に成立した「因幡民談記」(著:小泉友賢)にもこの怪談が記載されており、江戸中期にはすでにこの話が語られていたようです。
ちなみに、今回帰省した際の最後の訪問地です。
浦富の子育て幽霊
昔々、浦富の村にぎょうせん屋(水飴屋)があった。
ある夜遅く、ぎょうせん屋の戸を叩く者がいる。
「こがいに遅ぉに誰だらぁかなぁ(こんな遅くに誰だろうかな)」と、主人が戸を開けてみると、やせて青白い顔をした若い女が立っていた。
女は「すんませんが、子どもが腹をすかせて泣いとります。ぎょうせん一文ばかしもらえんでしょうかなぁ」と一文銭を主人に渡してお願いする。
主人はなぜかゾーッとしたが、ぎょうせんを一文分切ってやると、女は礼を言って去っていった。
次の夜も、遅くに戸を叩く者がいる。主人が戸を開けると、昨日の女が立っていた。
「すんませんが、子どもが腹をすかせて泣いとります。ぎょうせん一文ばかしもらえんでしょうかなぁ」
主人がぎょうせんを切ってやると、女はうれしそうに礼を言って立ち去った。
次の夜も、その次の夜も女は一文銭を持ってやってきて、ぎょうせんを一文分買っていった。
七日目の夜、今夜も女が来る頃だと思って、主人は戸に鍵をかけないで待っていた。するとやはり戸を叩く音がする。主人が戸を開けてやると、あの女が立っていた。
「すんませんが、今日はお金がのうなってしもうて・・・・ぎょうせん一文分めぐんでもらえんでしょうか」
主人は、その女の様子があんまりに哀れげなので、ぎょうせんを一文分めぐんでやった。女はうれしそうに何度も何度も頭を下げて去って行った。
主人は、「いったい、どこのもんだらぁか(どこの者だろうか)」と不思議に思い、こっそりと女の後をつけてみた。
すると女は、村はずれの寺の墓地で、フッと姿が見えなくなった。
驚いた主人は寺に駆け込んで、和尚さんにこれまでの話を聞かせた。和尚さんはじっと聞いていたが、「それは不思議な話だが、わしに思い当たることがないでもない」と言って、寺男たちと一緒に寺の墓に行った。
すると、卒塔婆が建てられた一番新しい墓の中から、赤子の泣き声がする。
みんなして墓を掘り起こしてみたら、棺の中にあの女がやせたやせた手で、しっかりと男の赤子を抱きかかえていた。
死んで墓に埋められてから赤子を産み落とした女が、棺に納められていた六文銭(三途の川の渡し賃)を一文ずつ持ってぎょうせんを買いに行き、赤子になめさせていたのである。しかし、七日目に六文銭も尽きてしまったのだった。
和尚さんは、改めて女にていねいな弔いをしてやった。そして「この子は深い因縁をもって生まれた子だ」ということで、寺で育て、大きくなってから京の名高い寺に修行にいかせた。
その後、その子は通幻禅師という立派なお坊さんになったということである。
※ぎょうせん(水飴)は麦芽を煮込んで作ったので栄養分はあった。実際に、乳の出ない女がぎょうせんを赤子に舐めさせたという話も伝わっている。
子育て幽霊の伝説は、少しずつ形を変えながら日本全国に分布しており、鳥取県内にも智頭町に子育て幽霊の伝説が伝わっています。
※智頭町に伝わる「子育て幽霊」の話は、<参考文献>に貼ったリンク先をご覧ください。こちらはちょっとかわいそうで、どこか後味が悪い話です。
「耳なし芳一」や「雪女」で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も島根県松江市にある大雄寺に伝わる話として、「水飴を買う女」という小編を残しています。
通幻禅師記念碑
通幻禅師は俗名を「永澤家光」、法名を「通幻寂霊」といって、曹洞宗の高僧です。1322年(元享2)に生まれ1391年(明徳2)に遷化しました。
生誕地は浦富(因幡国巨濃郡浦住)のほかに、豊後国(大分県)國崎郡武蔵郷とする説もあります。
通幻禅師の記念碑は、浦富の町はずれ、かつて香林寺という寺があった地に建っています。1796年に成立した安陪恭庵の『因幡志」にも「土葬神」として紹介され、上記の「子育て幽霊」とは別の逸話が記されています。
※ところで、関連の本や「因幡志」には、高さ1mくらいの角柱の記念碑の写真や絵が載っていたのですが、今はないようです。倒れたか何かなのでしょうか。左側が記念碑の台座かも?
「因幡志」が記す通幻禅師誕生の逸話
元享の頃、このあたりに「永澤」という家があり、「池淵長者」と称されていた。その家には一人娘がいて、細川村(現・鳥取市細川=鳥取砂丘の後背地の東のはずれ)の太郎麻呂という若者と恋仲になった。
娘は太郎麻呂の子を妊娠し、月満ちて出産に臨んだが、産み落とすことなく死んでしまい、娘は香林寺のそばにあった「自得庵」という草庵のかたわらに葬られた。
翌日、諸国行脚の僧が通りかかった。新しい卒塔婆=娘の墓を見つけた僧は回向をしたが、土中からかすかに赤子の泣き声が聞こえる。住民からその墓のいわれを聞いた僧は、施主である長者に事情を説明し、墓を開いてもらった。棺の中では、死んだ娘が男の赤子を産み落としていた。
長者は驚き、そして喜んだが、僧は「この子が産まれたのは尊い仏縁に違いない。必ず有徳の高僧になるだろう」と長者に話し、その子をもらい受けた。
その子は僧のもとですくすくと成長し、一を聞いて十を知る賢い子に育った。そして修行を積み、通幻和尚という名高い高僧になった。
香林寺門内の大きな榎のそばにある墓が、通幻禅師の墓と伝わる。 (因幡志の該当の箇所を現代語訳)
「因幡志」には娘(通幻禅師の母)と太郎麻呂が結婚したという記述はなく、通幻禅師の母は、今で言う「未婚の母」のようです。「子育て幽霊」の話に、女の夫=赤子の父が出てこないのも、少し納得です。
「因幡志」ではこの逸話の最後に、「(通幻禅師の)出生にまつわる怪談があるがそれは省略する」とだけ書かれています。
通幻禅師の指導はたいへん厳しく、悟りを開かない弟子を「活埋杭(かつまいきょう)」として生き埋めにしたこともあったそうで、禅師が母の死後に墓の中で生まれたという逸話も、そこから生まれたのかもしれません。
香林寺跡
通幻禅師記念碑の建っている場所は、かつて香林寺という寺がありました。通幻記念碑の近くには、古いお墓も並んでいます。
浦富の海
通幻禅師の母も、生前この景色を見ていたのかもしれませんし、幼き日の通幻禅師も、この海で遊びながら大きくなったのかもしれません。
通幻禅師記念碑の場所
<参考文献>
・むかしがたり 著:山田てる子 版画:岸信正義 企画:毎日新聞鳥取支局 日本写真出版 1975年4月1日発行
・子どものための鳥取の伝説 著:野津龍 山陰放送 1979年(昭和54)1月26日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年(平成6)3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年(平成24)12月5日発行
・因幡志 著:安陪恭庵 世界聖典刊行協会 1978年(昭和53)9月14日発行
・Wikipedia 「通幻寂霊」 通幻寂霊 - Wikipedia
・とりネット 鳥取県立博物館 子育て幽霊 子育て幽霊(智頭町波多)/とりネット/鳥取県公式サイト (tottori.lg.jp)
・通幻禅師誕生地 現地解説板 平成6年(1994年)3月 岩美町教育委員会
次回予告 特別編「鳥取大火」
今回が最終回と予告しましたが、特別編として、鳥取の実家に残っていた鳥取大火の直後に撮影した写真を紹介いたします。
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