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旅の終わりに・1-鳥取の名峰 大山-

前回の鳥取城の人柱の記事で、今回の訪問記は終了です。
今回は鳥取県西部の米子市からスタートし、鳥取市がラストになったので、大山(だいせん)のいろいろな姿を見られたことも収穫でした。
最後に、旅の途中で見た大山の姿を、ずっと以前に撮影した古い画像も合わせて紹介いたします。

大山について

大山は標高1709m。中国地方の最高峰です。大山の最高点は剣ヶ峰の1729mですが、剣ヶ峰に達する稜線が激しく崩落して危険なことと、古来から弥山(みせん)が山頂として扱われ、信仰を集めていたことから、弥山の標高1709mが大山の標高とされています。

大山は100万年以上前から活動を始めた火山で、数回の破局的な噴火をしています。特に5万年前の噴火は、東北地方の福島県にも火山灰を降らせており、この時の火山灰は「大山倉吉軽石」として地層の年代を特定する重要な鍵層となっています。最後の噴火は約2万年前とされています。

奈良時代のはじめに大山寺(だいせんじ)が開かれ、平安時代には天台宗の寺院として多くの僧兵を擁し、大きな勢力を持つに至りました。
戦国時代には戦国大名の尼子氏や毛利氏からも崇敬を受け、江戸時代も鳥取藩主・池田氏の保護を受けて栄えました。しかし、明治に入ってからの廃仏毀釈運動で打撃を受け、多くの僧坊が閉鎖、破壊されました。
現在は西日本のスキーのメッカとなっています。
また、文豪・志賀直哉が『暗夜行路』の終盤で描写した大山の夜明けの場面は、日本文学に於ける自然描写の名場面として知られています。心身ともに傷つき疲れ果てた主人公の時任謙作が大自然に触れてすべてを許そうと心洗われる場面です。

米子城天守跡からの大山

9月14日の朝に登った米子城天守跡では、御来光を拝むことが出来ました。

大山 日の出前 9月14日 5時53分 米子城天守跡から
大山 日の出 9月14日 6時00分 米子城天守跡から
大山 日の出 9月14日 6時00分 米子城天守跡から
大山 日の出 9月14日 6時00分 米子城天守跡から
大山 日の出 9月14日 6時01分 米子城天守跡から

淀江町中間からの大山

9月14日。米子市をあとにして、JR大山口駅に向かう途中、米子市を抜けてすぐの淀江町中間というところで青空に映える大山を見ることができました。

淀江町中間からの大山 9月14日 9時27分
大山主峰 9月14日 9時28分

大山町坊領からの大山

JR大山口駅を訪れ、鈑戸の埋め墓に向かう途中、大山町の坊領という集落付近で見た大山です。
ここは、大山の山ふところにかなり入ってきています。

大山町坊領からの大山 9月14日 9時59分

前日9月13日は行動を始めたのが午後3時過ぎでした。天気は晴れだったのですが、大山一帯には雲がかかり、山の全容は見ることができませんでした。天気は晴れでも大山には雲がかかることが多く、頂上まで見ることができるのは晴れた日の午前中がチャンスです。

この日は鈑戸の埋め墓を訪れたあと中山の埋め墓へ。ついで花見潟墓地。そして12時過ぎに旧東伯火葬場跡を訪れたのですが、その時はもう空は快晴でも大山には雲がかかっていました。


鳥取砂丘 千匹狼の伝説の地からの大山

旅の最終日の9月17日。浜坂の千匹狼の伝説の地からは、鳥取市街地と因伯国境の山並みの遙か向こうに、大山を見ることができました。

鳥取砂丘 千匹狼の伝説の地からの大山 9月17日 6時59分 鳥取砂丘浜坂から
鳥取砂丘 千匹狼の伝説の地からの大山山塊 9月17日 7時00分 鳥取砂丘浜坂から
左:烏ヶ山 中央:大山主峰 右:甲ヶ山

これまでの記事で掲載した画像ばかりですが、旅のまとめに大山の画像をまとめて掲載させていただきました。

2006年12月30日に訪れた大山

実は私、大山には4回しか行ったことがありません。亡父の話だと、よちよち歩きの頃に1回連れて行ったということですが・・・・記憶にはないが写真は残ってる。
1回目は中学1年生の時の1年生大山登山。2回目は中学3年生の時の3年生鏡ヶ成バス旅行。3回目が大人になってからの2006年(平成18)12月30日、4回目が2007年(平成19)8月13日です。これから紹介するのは3回目と4回目の時の画像です。

2006年の12月30日に大山を訪れたとき。この時は鳥取県は年末の大雪に襲われ、大山には1m近くの積雪がありました。外気温は日中でも-1度で、道路はカチンカチンに凍結していました。

厳冬の大山 2006年12月30日 14時06分

大山寺の旅館街も大雪に見舞われて観光客は見当たりません。旅館街から少し離れた南光河原に来たとき、わずかに晴れ間がのぞきました。

雪の大山南光河原 2006年12月30日 15時00分

大山寺の旅館街から少し離れた林の中に阿弥陀堂というお堂があります。ここも深い雪に覆われていました。

雪に埋もれる阿弥陀堂 2006年12月30日 15時25分

「伯耆富士」の姿が望める桝水原に行ってみたかったのですが、ガスがかかって山頂まではとても見えないと思われることと、夕方に向かい気温がさらに下がることが予想されたので、断念しました。
4回目に大山を訪れたのは、そのおよぞ8か月後です。

2007年8月13日に訪れた大山

観光地として有名な大山。その観光基地が大山寺の旅館街です。

大山寺の旅館街 2007年8月13日 11時59分

<大山北壁と賽の河原>
大山北壁は冬の激しい季節風が吹き付けて崩落が激しく、荒々しい山容を見せます。冬の登山は厳重な装備と熟練した技術が必要で、遭難者もたくさん出ています。この画像は残念ながら雲がかかっていて北壁はほとんど見えませんが・・・・

大山北壁と賽の河原 2007年8月13日 13時09分

賽の河原は、あの世への入り口。親より先に亡くなった子どもたちが、その不幸を詫びながら石を積みますが、あと少しで積み上がるという時に鬼が現れて石積を蹴散らしてしまいます。かわいそうな子どもたちは、また泣きながら石を積むと言われています。
画像にも石積が見えます。子どもを亡くした親が、子どもの冥福を祈って積んだのでしょう。

賽の河原への入り口には「金門」という大きな岩があります。この金門が、法界である大山と俗界との結界とされています。

金門 2007年8月13日 13時14分

<阿弥陀堂>
前年の12月30日には雪に埋もれていた阿弥陀堂を再び訪ねました。
阿弥陀堂は1552年(天文21)に建てられた、現存する大山寺の堂宇で一番古い建物です。織田信長(1534年生まれ)がまだ18歳、豊臣秀吉(1537年生まれ)が15歳、徳川家康(1543年生まれ)が9歳の時の建築ですね。

大川寺阿弥陀堂 2007年8月13日 14時41分
大山寺に現存する最古の建築物

<伯耆富士>
西の方角(米子市、島根県方面)から望む大山はみごとな富士山型に見えるため、「伯耆富士」「出雲富士」とも呼ばれます。
ただ前に述べたように、大山は雲がかかることが多いために富士山型の山容が望める機会はそう多くはありません。

桝水原から望む大山 2007年8月13日 15時14分

<大山南壁>
南方から望む大山は、北壁と同様に崩落が激しく、荒々しい山容を見せます。

鍵掛峠から望む大山南壁 2007年8月13日 16時37分

<弓ヶ浜半島の夕暮れ>
大山から見る米子の夕景、弓ヶ浜半島と島根半島の夕景もなかなか美しいです。夕映えの日を浴びる大山も美しいです。

大山寺旅館街から望む弓ヶ浜半島の夕暮れ 2007年8月13日 18時42分
大山南光河原の夕暮れ 2007年8月13日 18時44分
大山寺旅館街から望む弓ヶ浜半島の夕暮れ 2007年8月13日 18時45分

私は大山に登ったのは中学1年の時の1回だけです。大山を訪れた回数も多くはないのですが、眺める場所や天候、季節によって様々な表情を見せるため、「また来てみたい」と思わせる山です。

次回予告 旅の終わりに・2-今回の旅行記 最終回-

今回の旅行記、次回で最終回です。

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