幽霊薬-伝説が秘める因幡の戦国時代・1-
今回は、お盆にちなんで幽霊の出てくる伝説です。
この伝説は、私が子どもの頃に母や祖母から聞きました。鳥取県東部地方ではよく知られた昔話と思っていたのですが、前項「申年がしん」で紹介した「むかしがたり」(著:山田てる子 日本写真出版 S50.4.1)には、この話は載っていません。実はあまり知られていない伝説なのかも知れません。
鳥取の郷土出版関係では「子どものための鳥取の伝説」(著:野津龍 山陰放送 S54.1.26)にこの話が載っています。
一種の怪談ばなしなのですが、舞台となった地域の当時の歴史を考えると、この怪談ばなしに秘められた因幡国(鳥取県)の戦国時代の姿を垣間見ることが出来ます。
幽霊薬
むかし、布勢に与一兵衛(よいちひょうえ)という男が住んでいました。
ある日、与一兵衛は嵐ヶ鼻(安長土手)の近くにある自分の田んぼで仕事をしていました。日が暮れて薄暗くなり、仕事をしまおうとしていてふと気がつくと、田んぼのすみに何やら白いものが立っています。その白いものは風に吹かれるようにゆらゆらとやってきて、与一兵衛の前に来ました。やせて青白い顔をして、ばさばさの長い髪をした若い女です。白い死に装束を着ています。
与一兵衛は女に「おい、おまえはこんなところで何しとるだいや」と問いかけました。
すると女は蚊の鳴くような小さな細い声で「わたしは、このあたりが町だった頃、ちょうどあなたの田んぼがあるところに住んでいた医者の娘です。体の弱かった私が長患いをしていると、医者の父親の方が先に死んでしまいました。続いて私も死んだのですが、その頃は戦が続いて、葬式も出してもらえず、私の体も捨てられるように山に埋められてしまいました。そのため、髪を剃ってもらうこともできませんでした。あなたにお願いです。この長い髪を剃ってもらうことができませんでしょうか」と言うのです。
与一兵衛は(すると、この女は幽霊なんだな)と思いましたが、話を聞いているうちに女が哀れになってきました。
与一兵衛が「話は分かった。だが、あいにく今日は髪を剃る道具を持ってきとらん。明日のこの時間に髪を剃る道具を持って、必ずここに来るけぇ、その時に、また出てくることはできるか?」と女に話しかけると、
女はうれしそうに「きっと参ります。ありがたいことです」と言って、かき消すように姿を消しました。
次の日の晩、与一兵衛が髪を剃る道具を持って田んぼで待っていると、昨日と同じように田んぼの隅にあの女が現れ、風に吹かれるように与一兵衛の前にやってきました。
与一兵衛が「それじゃあ、これから髪を剃ったるけぇ、髪の毛を濡らしてきてつかんせぇ(濡らしてきてください)」と言うと、女は近くを流れている小川の水で長い髪を濡らし、与一兵衛の前に座りました。
与一兵衛が女の髪を剃ってやっていると、女が与一兵衛に語りかけました。
「ありがとうございます。こうして髪を剃っていただくのが、私の望みでした。これまでも何度も通りかかる人に頼んでみたのですが、みんな私を見ると怖がって逃げ出してしまい、髪を剃ってもらうことができませんでした。これでようやく私も仏のお仲間になることができます」
女は着物のたもとから書き物を取り出して、与一兵衛に渡して言いました。
「これは私の父が使っていた医術の書き物です。この書き物にしたがって治療をすれば、どんな病気もよくなるはずです」
最後に女はこんな約束を付け加えました。
「ただし、この書き物はあなたさまだけが使うようにしてください。他の人に見せたりしないでください」
そう言うと、髪を剃ってもらった女の幽霊はかき消すように姿を消しました。
それからというもの、与一兵衛は病気の人がいると聞くと、その書き物にしたがって治療をしたり薬を調合したりするようになりました。
与一兵衛の薬はよく効くということで評判になり、お殿様の家老を務める荒尾但馬からも声がかかりました。そして与一兵衛の作る薬は「幽霊薬」と呼ばれて、評判になりました。
ところがある日、与一兵衛は仏壇の奥に隠してあった、女幽霊からもらった書き物が無くなっていることに気がつきました。家族の誰かがこの書き物を見てしまったので、あの女幽霊が取り返してしまったのでしょうか。
ですが、与一兵衛は長いこと書き物にしたがって治療をしてきたので、書き物に書かれていることを覚えていました。与一兵衛はその書き物に書かれていたことを帳面に書き写し、それからも病人の治療を続けました。
さらに与一兵衛の子孫も、その帳面にしたがって幽霊薬を作り続けていたということです。
鳥取市郊外、布勢に近い里仁という集落に与一兵衛の子孫という方が住んでいますが、今でも与一兵衛が残した帳面や幽霊薬を作るのに使った道具が残されているということです。
嵐ヶ鼻(安長土手)は義民 東村勘右衛門・2-勘右衛門土手と東村勘右衛門之碑-|Yuniko note の項で少しだけ紹介しました。鎌倉時代末期から室町時代にかけて造られた堤防です。中世に造られた土手が残っている例は全国的にも貴重で、日本土木学会が選定する「土木遺産」にも選ばれています。
嵐ヶ鼻が造られた安長は野坂川と千代川の合流点にあたり、水害で悩まされてきました。その水害を防ぐために長年にわたって築かれてきたのが、嵐ヶ鼻(安長土手)と言われています。
伝説「幽霊薬」の時代背景・1-戦国時代の因幡国の情勢-
伝説「幽霊薬」の中で、女の幽霊は「このあたり(嵐ヶ鼻周辺)で戦が続いた」時代に死んだと言っています。女が生きていた時代は室町時代後期。俗に「戦国時代」と呼ばれている時代と思われます。
この時代の因幡守護は山名氏が代々務めていました。山名氏はほかにも但馬国(兵庫県北部)、伯耆国(鳥取県西部)の守護も務めていたので、因幡守護を務めた山名氏を「因幡山名氏」と呼んでいます。惣領家は但馬山名氏でした。
因幡山名氏の守護居館は、湖山池東岸の「布勢天神山城」にありました。現在、城趾は鳥取緑風高の敷地となっています。
伝説の中では、与一兵衛が住んでいたのが布勢とされています。
戦国時代、布勢は神社仏閣や商家が立ち並び、大いに栄えていました。すぐ西にある湖山池が、今と違って日本海と繋がった内湾になっており、海上交易の要所となっていたためです。その後、江戸時代になると湖山池は砂丘の移動に伴って閉塞した潟湖となり、布勢はさびれました。与一兵衛が布勢に住んでいたのは、そんな時代です。
応仁の乱(1467~1477年)の後、因幡山名氏の一族内で守護の座を巡る内紛が起こり、兄と弟、叔父と甥が血で血を洗う争いを繰り広げるようになりました。そこに惣領家の但馬山名氏も介入し、因幡山名氏は弱体化していきます。
1500年代に入ると争いはさらに激化し、この頃に守護居館だった布勢天神山城周辺にも戦火が及ぶようになりました。
幽霊となった医者の娘が生きたのは、そんな時代です。
1500年代半ばに因幡国は但馬山名氏の支配下に入り、一時小康状態となりますが、やがて、出雲国(島根県東部)の尼子氏、次いで安芸国(広島県西部)の毛利氏が因幡に進出、重臣・武田高信の離反もあって、混乱が続きます。
下記は、一次資料をもとにした布勢天神山城の略年譜です。なお、一次資料とは当時の武将や貴族たちの残した文書、感状、日記などのことで、ほぼ確実な事実が記されている史料のことです。
1512年(永正9) 因幡守護・山名豊重が布勢天神山城から八上口に出兵。弟・山名豊頼と但馬守護・山名誠豊に急襲されて戦死。 ※布勢天神山城の一次資料における初見
1513年(永正10)3月26日 布勢天馬口合戦(山名豊頼感状『北河文書』)
1513年(永正10)4月26日 布勢正木口合戦。布勢天神山城が相次いで戦火にさらされる。(山名豊頼感状『北河文書』)
1522年(大永2) 12月3日 布勢仙林寺合戦。布勢天神山城が襲撃される。(中村文書)
1543年(天文12) 8月 但馬守護・山名祐豊が因幡に進出し、因幡守護・山名久通を布勢天神山城に追い詰めるが、久通はこれをしのぐ。祐豊は重ねて布勢天神山城攻撃を指令する。(萩藩閥閲録)
1548年(天文17) 但馬守護・山名祐豊は弟の山名豊定を因幡に下向させる。 ※これ以前に、因幡守護・山名久通は失脚、または死亡したものと思われる。因幡国が但馬山名氏の支配下に入ったことで、一時小康状態を保つ。
1563年(永禄6) 3月 山名氏の重臣・武田高信が鳥取城に拠って山名氏に反抗。
1563年(永禄6)4月3日 因幡守護・山名豊数が鳥取城に拠る武田高信を攻める(湯所口合戦)。山名氏の主将・中村伊豆守が武田方の攻撃で戦死。
1563年(永禄6) 12月 武田高信が布勢天神山城を攻撃。守護・山名豊数は大敗して布勢天神山城を放棄、鹿野城に退く。 ※『譜録』。確実な史料に布勢天神山城が表れる最後
これ以後も因幡国の混乱は続きますが、戦乱の舞台は新たに因幡国の要衝となった鳥取城を巡る攻防へと移っていきます。
伝説「幽霊薬」の時代背景・2-伝説の時代を読み解く-
「幽霊薬」の伝説には、ほかにも時代背景を読み解く言葉がいくつか出てきます。確定している史実と上掲の年表を見比べながら、さらにくわしく時代背景を読み取ってみます。
与一兵衛がお声がかりになった荒尾但馬は、鳥取藩主・池田家の筆頭家老を務めた家柄。よって、「幽霊薬」の舞台になっているのは、初代・荒尾但馬守成利が鳥取藩に入った1632年以降。
幽霊となった医者の娘が死んだのは、嵐ヶ鼻周辺で戦が続いた時代。嵐ヶ鼻や布勢が戦乱に巻き込まれたのは、当時の一次資料によると1513年から1563年までの間。この時期には50年間で6度の戦があった。特に、1513年から1543年までは、30年間で5度の戦があり、布勢周辺は戦乱の極みにあった。逆に、1544年から1563年までは小康状態となっている。よって、死んだ女が、「葬式も出してもらえず」「死体が捨てられるように葬られていた」時代は、1513年から1543年の間の可能性がある。 ※山名豊数が布勢天神山城を放棄した1564年以降は、布勢周辺が戦に巻き込まれたことはなく、戦乱の地は鳥取城周辺に移っていった。
今では語る人も少なくなり、忘れられかけている伝説ですが、因幡国の戦乱の歴史が秘められています。
<参考文献>
・子どものための鳥取の伝説 著:野津龍 山陰放送 1979年1月26日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・因泊の戦国城郭 通史編 著:高橋正弘 自費出版 1986年12月15日発行
・山陰戦国史の諸問題 著:高橋正弘 自費出版 1993年1月31日発行
・Wikipedia 「布勢天神山城」
次回予告 立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-
次回もお盆の時期にふさわしく、幽霊の出てくる伝説です。