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倉吉市・大岳院【里見八犬伝終焉の地・1】

江戸後期、文化文政期の読本(よみほん)の代表作として知られる『南総里見八犬伝』。そこに登場する戦国大名・里見家は、江戸初期に鳥取県の倉吉市で終焉を迎えました。
3回シリーズで里見八犬伝終焉の地を巡ります。

南総里見八犬伝

『南総里見八犬伝』は曲亭馬琴(きょくてい・ばきん 1767~1848)によって書かれた伝奇小説で、1814年(文化11)から刊行が始まりました。途中、馬琴が失明するという苦難がありましたが、息子の嫁に口述筆記を依頼するなど、馬琴はこの作品の完成に情熱を傾け、1842年(天保13)に最終巻が刊行されました。完成まで、実に28年を費やしています。
物語は、名字に「犬」の字を含み、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉を持つ八犬士たちが、日本全国を巡りながら里見家を守るために活躍します。
映画化、マンガ化、ゲームの素材等にもなっています。私の年代だと、1973年4月から1975年3月にかけて放送されたNHKの人形劇「新八犬伝」ですね。
もう夢中になって見てました。

新八犬伝
左から、犬塚信乃(孝)、犬川額蔵(義)、犬飼現八(信)、犬山道節(忠)
後ろのおどろおどろしいのは、里見家に仇なす悪女・玉梓(たまずさ)の怨霊
これも好きでした
碧也ぴんく 八犬伝

房総の戦国大名・里見家

里見氏は、安房国(千葉県南部)を根拠とする戦国大名です。『南総里見八犬伝』には里見氏の祖として里見義実という人物が登場しますが、彼が実在の人物かどうかは少し怪しいそうです。
清和源氏新田氏流を称し、戦国時代は小田原の北条氏と対抗しました。北条氏滅亡後、当主の里見義康は豊臣秀吉に従い、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属しました。東軍勝利の恩賞として安房国に加えて常陸国(茨城県)鹿島郡を与えられ、12万石を領することになります。
このままいけば源氏の名家として栄えるはずだったのですが、事件は里見氏10代目の里見忠義の治世で起きます。

里見忠義

里見忠義(1594年~1622年)は里見義康の子で母は織田信長の姪です。急死した父の後を継いで安房国館山城主となりました。将軍・徳川秀忠の面前で元服し、秀忠から「忠」の字を与えられ、「忠義」と名乗りました。また、忠義の妻は当時権勢を振るった大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)の孫娘でした。どこからどう見ても順風満帆な人生だったのですが・・・・
1614年(慶長19)9月9日、重陽の節句の賀詞を述べるために江戸に出府した忠義に、突然「安房国を没収、常陸国鹿島郡の替地として伯耆国倉吉3万石を賜る」との命令が下ります。驚いた重臣たちは駿府城の大御所・徳川家康のもとに出向き、さまざまに哀訴しましたが、家康は「とにかく早く倉吉に赴け」とのつれない返事。忠義たちは安房国への帰国も許されず、そのまま倉吉に向かいました。
忠義の領地没収の原因はよく分かっていませんが、この直前に大久保忠隣が幕府内の政争の結果で領地没収にあっており、そのとばっちりを受けたという見方があります。

大岳院

忠義一行は1614年12月頃に倉吉に着いたとされています。旧暦12月は今の1月から2月頃。温暖な安房国から雪深い山陰の倉吉への国替えは過酷だったことは想像に難くありません。
忠義たちは倉吉の神坂村に居を構えますが、幕府から与えられた領地は約束と違い3000石ほどでした。
忠義が最初に住んだのは、当時からここにあった大岳院の門前と伝えられています。
大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、1617年(元和3)6月に岡山城主の池田光政が因幡伯耆32万5千石の領主となりました。忠義は神坂村の居を追われ、領地もわずか百人扶持に減らされ、倉吉の町はずれの下田中に移されました。
1619年(元和5)には下田中も追われ、さらに山奥の堀村(倉吉市関金町堀)に移されました。
1522年(元和8)6月19日、忠義は失意のうちに世を去りました。倉吉の町はずれ、定光寺河原で火葬にされた忠義の遺骨は、かつての居住地に隣接した大岳院に葬られました。

大岳院の門
大岳院の山門
里見忠義と家臣たちの墓
中央の大きな五輪塔は忠義の曾孫で越前国鯖江藩の家老を務めた里見義孝の墓
その右隣が里見忠義の墓

忠義の死から3か月後、8人の家臣が忠義の後を追って殉死しました。大岳院の里見忠義の墓所には、殉死者8名の墓も一緒に祀られています。
この8名の殉死者の法名にはすべて「賢」の字が含まれており、「八賢士」と呼ばれています。このことを何かで伝え聞いた曲亭馬琴が、歴史では消え去った里見家の武勇を惜しみ、「八賢士」を「八犬士」として蘇らせ、読本の中ではあっても里見家の再興を果たそうとしたとする説もあります。

大岳院には、里見忠義の遺品の九条切交の袈裟と宋代の古三彩の皿1枚が伝わっています。

大岳院の場所

<参考資料>
・房総 里見一族 川名登 新人物往来社 2008年3月15日発行
・Wikipedia 南総里見八犬伝 - Wikipedia
・Wikipedia 里見忠義 - Wikipedia

次回予告 倉吉市・勝宿彌神社【里見八犬伝終焉の地・2】

江戸幕府の政争に巻き込まれて領地を没収され、倉吉での最初の住居も追われた里見忠義が、次に住んでいたとされる地を訪ねました。

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