義民 東村勘右衛門・1-元文一揆と斬刑地蔵-
鳥取県東部で令和の今も語り継がれている義民・東村勘右衛門(松田勘右衛門)について紹介いたします。
元文一揆
江戸時代の鳥取藩は早くから財政難に見舞われ、藩政でも重臣たちの対立が続いて、混乱していた。また、藩の年貢は「六公四民」=収穫の60%を年貢として納めるという高率だったことに加え、鳥取藩のとった請免制(米の豊作凶作に関係なく、過去数年間の米の収穫量の平均をもとに算出した定量を年貢として納める。鳥取藩ではこの率が六公四民)が農民の暮らしを苦しめた。
元文3年(1738年)には長雨で米の収穫に大きな被害が及び、年貢未納の罪で入牢させられる者も相次ぎ、食べ物を求める飢えた庶民が鳥取城下にあふれた。しかし藩から救済策が講じられることはなかった。
八東郡東村の庄屋だった勘右衛門は、大庄屋や郡代(藩主に代わって郡を治める役人)に年貢の軽減や救済策の実施を陳情するが聞き入れられることはなく、却って「藩政に口を出した」として処罰される有様だった。
勘右衛門は、窮状を打開しようと親戚や朋友たちと一揆を計画した、因幡一円や隣国・伯耆国(鳥取県中西部)にも応援を求めた。
一揆は元文4年(1739年)2月中旬に始まり、藩と結んだ大庄屋や村役人の屋敷を打ち壊しながら、鳥取城下に進んだ。これに因幡各村や伯耆国で蜂起した一揆勢も合流し、2月23日・24日には城下近郊の千代河原に集結した。
一揆には約5万人が参加したとされ、これは当時の鳥取藩の全人口の6分の1にあたる。
一揆勢は年貢の軽減、請免制を考案し推進した郡代の罷免、農政の改善を要求し、藩は善処を約束した。
しかし、一揆解散後、藩はただちに首謀者たちの捜索・逮捕に動き、2月27日には勘右衛門らを逮捕。その後、数十名を逮捕した。
ところが、取り調べが進むに連れ、藩の重臣・藩士の中にも一揆に同情的だったり、秘かに一揆勢と接触したりしていた者が多くいたことが発覚し、処罰は難航した。結局、一揆に同情的だったり一揆と接触したりしていた重臣や藩士は、閉門や追放に処せられた。
逮捕から1年以上経った元文5年(1740年)11月21日、勘右衛門と弟の武源治は千代河原にあった鳥取藩斬刑場で処刑され、首は故郷の東村で晒された。このほかに、一揆の首謀者とされた36名以上が斬罪の上、梟首。40名以上が国外追放の刑に処された。
一揆の終結の後、大規模な一揆を目の当たりにした鳥取藩は、農民の一定の配慮を見せるようになった。
鳥取藩斬刑場と斬刑地蔵
鳥取藩の斬刑場があった場所は、はっきりとは伝わっていません。千代川にかかる八千代橋のたもとにあったのではないかと推測されています。30m四方ほどの芝生の広場だったとされています。
斬刑地蔵は「見殺し地蔵」とも呼ばれ、斬刑場の近くにあったとされています。
地蔵尊は、宝永2年(1705年)に創建されたと考えられ、はじめは木造だったものを明和7年(1770年)に今の石仏に作りかえたとされています。
地蔵堂脇にある題目碑には「元文五申八月一日」と刻まれています。この年の8月1日に勘右衛門兄弟を除く元文一揆の指導者12名が前述の刑場で処刑されており、この題目碑はその供養塔です。
多くの受刑者の魂を救済してきた斬刑地蔵は、いまも厚い尊崇を受けています。
<参考文献>
・Wikipedia:元文一揆、松田勘右衛門 の項
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・首切り地蔵の由来(現地解説板) 徳永職男(鳥取大学名誉教授) 昭和51年(1976年)1月