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勝田村刑場跡と題目塔

米子市の中心部にかつての刑場跡がありました。少し離れて、刑死者の霊を弔ったとされる題目塔も残っています。

勝田村刑場跡

米子市の住宅街に「住之江公園」という小さな公園(というか遊園地)があり、実はそこが江戸時代の米子の刑場でした。タイトルに「勝田村刑場」と記しましたが、地名を取って「車尾(くずも)刑場」とも呼ばれていました。
公園の一角にフェンスで囲われた「合葬の碑」という石碑が建っています。石碑の裏には「寄進 鳥取刑務所教誨師一同 明治三十九年三月建立 平成八年十月再建」と刻まれています。
台座はかなり古そうなのに石碑そのものはきれいな白御影なので、石碑は再建されたものであることが分かります。
かつて野坂寛治という人が書いた『米子界隈』「勝田の処刑場」によると、むかし存在した松江監獄米子分監で明治16年8月から昭和23年3月までに獄内で亡くなった230人の遺骨を慰霊した碑のようです。
同書には「大正の頃まで二丈余の法華塚があったが見当たらない」とも書かれています。

勝田村刑場跡 合葬の碑
勝田村刑場跡 合葬の碑
勝田村刑場跡 合葬の碑
裏側の碑文

題目塔

勝田村刑場跡から200mほど南、米川(江戸時代の用水路)沿いの土手に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔が建っています。
これが野坂寛治が記している勝田村刑場に建っていたという法華塚です。碑文に「(日蓮の)龍ノ口法難五百遠忌の報恩のために日蓮宗本教寺の日巌上人の発願によって建立された 明和七年(1770年)九月十二日」と刻まれています。
龍ノ口の法難とは、日蓮が文永8年(1771年)9月12日に鎌倉幕府によって逮捕・連行され、翌13日に龍ノ口で斬首されそうになった事件のことです。

米川土手の題目塔
「南無妙法蓮華経」と刻まれています
米川土手の題目塔
側面に塚の由来が刻まれています

記録によると、米子には罪人を斬首できるほどの使い手がおらず、鳥取城下の執行人が米子に出張して刑を執行していたそうです。

勝田村刑場跡と題目塔の場所

<参考資料>
・米子市HP 刑場跡 刑場跡(住之江公園)/米子市ホームページ (yonago.lg.jp)
・山陰百貨店 車尾刑場跡 車尾(くずも)刑場跡 【米子市車尾】 | 山陰百貨店―日常を観光する― (ameblo.jp)
・城下町と罪びと 近世諸藩の城下町並びに、罪びとの処罰施設の概説 鳥取藩(5) 米子の刑罰施設(1) 近世諸藩の牢屋と刑場 近世の諸藩(中国地方) (hp-ez.com)

次回予告 大山口駅空襲慰霊碑

子どもの頃、「太平洋戦争中に鳥取県では空襲はなかった」と教わりました。たしかに数百数千の人が犠牲になる空襲はなかったのですが、多くの方が犠牲になった空襲は鳥取県でもあったのです。

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