見出し画像

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・5】 摩瑠山斎場跡

摩瑠山斎場は倉吉市の郊外にあった斎場です。鳥取中部ふるさと斎場が供用開始するまで使われていました。

倉吉市について

倉吉市は鳥取県中部の市で、2024年9月1日現在の人口は43,885人です。
古代から中世にかけて伯耆国の中心となった歴史の長い町です。
1953年(昭和28)に市制施行し、2005年(平成15)3月22日には東伯郡関金町を編入しています。

摩瑠山斎場について

摩瑠山斎場跡は倉吉市の北の郊外、馬場町の山あいにあります。供用開始がいつ頃かは不明ですが、鳥取中部ふるさと斎場が開所された2013年(平成25)4月15日に閉業されました。

倉吉の市街地を抜け、国府川にかかる和田橋を渡り、住宅街を通って山道を500mほど登ると、摩瑠山斎場跡にたどり着きます。

摩瑠山斎場跡

大きな植え込みを通り過ぎると目に飛び込んでくるのが、天女の壁画です。
かつて炉前ホールの天井近くを飾っていた壁画が保存されています。

摩瑠山斎場跡 天女の壁画
摩瑠山斎場跡 天女の壁画

天女の壁画が設置されているあたりに火葬炉があり、その左脇に告別室と待合室がある建物があったようです。

天女の壁画の脇に建つ慰霊碑

火葬場跡敷地の右側には、風化が進んでいますが石に刻まれた六地蔵と3体の如来像、菩薩像があります。

石の六地蔵と如来像、菩薩像
六地蔵
だいぶ摩滅していますが、たしかに六地蔵が石に刻まれています
3体の如来像、菩薩像
こちらもかなり古そうです

天女の壁画の後ろ側には、納骨塔と思われる大きな建築物が残っていました。
納骨塔のすぐ前には、かつての門柱の一部と石の仏像が安置されています。

納骨塔
後ろに回ってみましたが、何もありませんでした
かつての門柱の一部
「倉吉市営火葬場」と記されています
 納骨塔の正面 地蔵菩薩(?)
左側の鮮やかな黄色い花は造花でした
納骨塔の前から見た火葬場跡の敷地
待合棟のあったあたりから見た火葬場跡敷地

敷地入り口の植え込みは当時のまま残されているようです。
外側からの視線をさえぎる役割も果たしていたようですが、横に回って見てみると、さまざまな石が庭石風に配置された少し凝った植え込みでした。

植え込み 正面から
植え込み 側面から
ちょっと分かりにくいですが、様々な石が庭石風に配置されています

摩瑠山斎場跡は、建物こそ残っていませんが、天女の壁画や納骨塔などかつての施設の一部がモニュメントとして残され、植え込みも今でも刈り込みがなされているようで、地域の方からかつての葬祭地として大切にされていることが伺えました。
なお、「火葬場見学記」というサイトに、摩瑠山斎場のかつての姿と内部の様子、鳥取中部ふるさと斎場の内部の様子が掲載されています。
・火葬場見学記 鳥取中部ふるさと斎場・摩瑠山斎場 (xrea.jp)
こちらのサイトにも、東博君さんのレポートで、鳥取中部ふるさと斎場と摩瑠山斎場のが紹介されています。
・火葬場関連サイト専用掲示板 鳥取中部ふるさと斎場 (xrea.jp)
<2024年9月14日訪問>

倉吉の天女伝説

摩瑠山斎場跡は天女の壁画のモニュメントが印象的ですが、倉吉には天女伝説が伝わっています。鳥取県ではけっこうよく知られた伝説です。最後に倉吉の天女伝説を紹介します。

むかし倉吉の町に一人の百姓が住んでいた。その百姓がある山に木を切りに行ったところ、山頂近くの大きな岩に見たこともない美しい衣が掛かっていた。さらに、近くの池で美しい女性が水浴びをしていた。
百姓は「これがうわさに聞く"天女の羽衣"というものかもしれん」と考え、その衣を持ち帰ろうとした。
そこへ、水浴びを終えた女が池を出てきた。女は、百姓がその羽衣を隠し持っているのに気付き、「その羽衣がないと天へ帰れない。返してほしい」と頼む。百姓は「おまえがわしの女房になるのなら返してやる」と言う。
天女は仕方なく、百姓の女房になった。しかし、いつまでたっても百姓は羽衣を天女に返してやらなかった。
月日が流れ、百姓と天女との間には美しい娘が二人生まれた。天女は娘たちに笛と太鼓を教えた。娘の奏でる美しい笛と太鼓の音色は近在の評判になった。
ある日天女は、娘たちに「お父さん(百姓)は美しい衣(羽衣)を持っていないか」と尋ねた。何も知らない娘たちは百姓が隠している羽衣のありかを教えた。天女がその場所を探すと、果たして羽衣が見つかった。
喜んだ天女は、その羽衣を身に付けて空に舞い上がり、天界へと帰っていった。
驚いた娘たちは、母親を呼び戻そうと倉吉の町の背後にそびえる山に登って、来る日も来る日も母親の名を呼びながら笛や太鼓をかき鳴らした。
しかし娘たちの願いは届かず、天女が娘たちのもとに帰ってくることはなかった。
それ以来、娘たちが母親を呼び戻そうと笛や太鼓をかき鳴らした山は「打吹山(うつぶきやま)」、百姓が羽衣を見つけた山は「羽衣石山(うえしやま・東伯郡湯梨浜町)」と呼ばれるようになった。

打吹山(204m)
中世には伯耆国の守護所とされ、「打吹城」が築かれました
羽衣石山(372m) 東伯郡湯梨浜町
東伯耆の戦国大名・南条氏の本拠として羽衣石城が築かれました
天女が羽衣を掛けたと言われる巨岩
羽衣石山山頂の模擬天守

摩瑠山斎場跡の場所

<参考資料>
・火葬場見学記 鳥取中部ふるさと斎場・摩瑠山斎場 (xrea.jp)
・火葬場関連サイト専用掲示板 鳥取中部ふるさと斎場 (xrea.jp)

今回で、鳥取の斎場&火葬場跡訪問記は取りあえず終了となります。
現役の斎場が4ヶ所。種々の情報から私の知っている火葬場跡5ヶ所。
鳥取もかつては集落火葬場が数多く存在したそうですが、そのほとんどが忘れられた存在になっているようです。昔の火葬場のことを知る人も年老い、年々情報源も少なくなる一方ですが、新しい火葬場跡の情報が入ったら、ぜひ訪問して記録に残しておきたいと思います。
鳥取県の斎場&火葬場跡訪問記は終了となりますが・・・・

次回予告 鳥取市丸山の旧火葬場にまつわる怪談

今回鳥取に帰省した際、鳥取の秘められた歴史や火葬場のことを調べようと、鳥取県立図書館で調べ物をしました。
大きな収穫はなかったのですが、地方新聞の古い連載記事に鳥取市丸山の旧火葬場にまつわる怪談が掲載されていました。丸山の火葬場の始原にも関係しそうなので、掲載いたします。
採話者は、長年にわたり鳥取大学の教授を務め、鳥取県の歴史や民俗の研究をされていた方です。こちらもぜひお読みください。

いいなと思ったら応援しよう!