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柳生宗章の供養塔-恩義に殉じた知られざる柳生の剣豪-
剣豪として有名な柳生宗矩の兄に当たる人物が、米子の町で生を終えています。人柱伝説と並ぶもう一つの米子城の悲劇を紹介します。
横田村詮
前の記事で、米子城についてはくわしく説明したので(米子城-人柱にされた娘-|Yuniko note)、ここでは簡単に。
米子城は豊臣政権下で出雲・伯耆を支配した吉川広家によって着工されました。しかし、吉川広家は関ヶ原の戦い後に周防国岩国へと去り、代わって駿河国駿府城から中村一忠が米子城主になりました。この時、一忠はわずか10歳。幼少の一忠に代わって米子の町づくりに邁進したのが、中村家の執政家老・横田内膳村詮(よこた・ないぜん・むらあき)でした。
横田村詮の前半生は不明な点が多いですが、阿波国の三好一族の出と言われています。1583年、岸和田城主だった中村一氏(一忠の父)によって召し抱えられました。一氏が駿府城主に任じられると、静岡の町づくりに腕を振るいます。
一氏の跡を嗣いだ一忠が米子城主になると、村詮は徳川家康によって一忠の執政家老として米子に派遣されました。村詮は、五重の天守がそびえる米子城を完成させ、領内の検地、寺院の建築、町づくり、運河の掘削など、今日の商業都市・米子の町の基礎を作りました。現在でも米子の町では村詮の功績がたたえられています。
しかし、政務に辣腕を振るう村詮は、一方で大きな嫉みも受けました。その中心となったのが、一忠の側近である安井清一郎と天野宗把です。
本編の主人公・柳生宗章は、剣の腕を見込まれ、横田村詮に客将として招かれたのでした。
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左側の湊山山頂に横田村詮が築いた天守台
右側の平坦な山が村詮の名を残す内膳丸
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当時は高石垣を築く技術が未熟だったため、天守台が3段になっている
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CGでよみがえる日本の城 https://8787pc.com/%E7%B1%B3%E5%AD%90%E5%9F%8E.html
かっこいいです。私は鳥取城もですが、米子城もぜひ復元してほしい!
剣豪・柳生宗章
柳生宗章(1560年~1603年11月14日)は剣豪・柳生石州斎宗厳の四男で、有名な柳生但馬守宗矩のすぐ上の兄に当たります。
弟の宗矩とともに徳川家康に召し出されますが、宗章はこれを断り、剣の道を究めようと武者修行に出ます。
その後、剣の腕を見込まれ、小早川秀秋に召し抱えられます。関ヶ原の戦い(1600年)では秀秋の警護に当たりました。
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの最中に西軍を裏切り、東軍勝利のきっかけをつくったとしてあまりにも有名です(※近年の研究では、最初から東軍だったという説が有力になりつつあります)。
秀秋はその功績で備前岡山城57万石の大封を得ますが、戦後わずか2年で脳を病んで死去。嗣子なく、小早川家は断絶となります。
宗章の剣の腕を惜しんだ横田村詮が、彼を客将として米子に迎えたのでした。
宗章は、小早川秀秋を剣の道で救えなかったことを、終生悔いていたと伝わっています。
米子城内での悲劇
村詮の才覚を嫉む安井清一郎と天野宗把は、村詮の暗殺をもくろみ、主君・一忠に村詮のことを讒言します。まだ年少だった一忠はこの讒言を信じ、1603年(慶長8)11月14日に慶事にこと寄せて米子城に村詮を招き、ついに宴席で彼を惨殺しました。村詮は享年52歳だったと伝えられています。
横田騒動
父の無惨な死を知った村詮の子・主馬介は怒り、村詮を支持する一党とともに米子城の隣にあった古い砦・飯山(いいのやま)に立てこもります。
この騒動は「横田騒動」「米子騒動」「中村騒動」などと呼ばれています。
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米子城が出来る以前の古い砦がありました
今は、わずかな石積が残るのみです
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主馬介や宗章が立てこもったのは、城内の内膳丸という説もあります
主馬介は宗章に対し、客将を巻き添えにすることは忍びないと、城から退出するように懇願します。
しかし宗章は、今回の事件への義憤と村詮への恩義から、主馬介ら横田一族に加勢することを申し出ました。
主馬介や宗章ら、横田一党の抵抗は凄まじく、鎮圧に手を焼いた安井・天野らは隣国出雲の松江城主・堀尾吉晴と忠氏父子に援軍を頼み、飯山に押し寄せました。
宗章は降りしきる雪の中、十文字槍を振るい、また雪に数本の太刀を刺して備え、群がる敵兵18人を切り伏せたと伝えられています。
しかし最後は刀折れて、壮絶な戦死を遂げました。
堀尾氏の助勢によってついに乱は鎮圧されましたが、これを知った徳川家康は自ら任じた横田村詮の死に激怒し、安井と天野に即日切腹を命じ、さらに彼らの暴挙を止められなかった一忠の側近2名にも切腹を命じています。
一方、一忠に関しては、若年であることを考慮したのか、品川宿で謹慎のみのお咎めなしとしました。
しかしこの事件から6年後の1609年(慶長14)5月11日、一忠は急死し、中村家は断絶となりました。
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飯山のふもとの一角にひっそりと祀られています
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義に殉じた柳生宗章を慕い、米子の町では柳生氏の流派である柳生新陰流(正式名は「柳生」をつけずに「新陰流」)が広まったと伝えられています。
柳生宗章の供養塔の場所
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<参考資料>
・Wikipedia 柳生宗章 - Wikipedia
・Wikipedia 横田村詮 - Wikipedia
・もののふ 山陰鳥取 知られざる歴史の物語 画:藤原芳秀 シナリオ:増田貴彦 リイド社 2014年10月22日発行
☆「もののふ」には、米子での柳生宗章の事績が劇画で描かれている。ほかに吉岡将監(鳥取県東部)、河田佐久馬(中部)の活躍が描かれている。
次回予告 勝田村刑場跡と題目塔
米子市の中心部にかつての刑場跡があります。少し離れて、刑死者の霊を弔ったとされる題目塔も残っています。