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金髪とまるでたぶん被災地
夏休みに染めて、実は隠していた内側一部金髪な髪の毛を、数日前に美容院でグレーがかった金色(ベージュグレーみたいな)にしたのでかわいくて、くくらずにおろしたまま仕事に行った。
美容師さんには、「『あれ、光かな?』って一瞬見える。大丈夫」と言われたし、さらに同化するのでは~な効果をねらい、黄色(レモンイエロー)の服を着て行った。
のに、すぐにバレて、「染めた?」と言われた。
同僚にも生徒にも。
私はそのたびに、「ばれたー」と笑ってごまかしたり、「隠しているつもりなのに!」と言ったけど、みんな「バレバレだよ」と言う。
授業に行ったら、生徒が「先生、染めれていいなー!」と言うから、「染めちゃダメなの?」と聞いたら「めちゃくちゃ怒られる」らしい。
トイレの明るい鏡で見たら、たしかに金色だった。
色を抜いているので、質感としては人間じゃなくて動物の毛みたいだ。犬かライオン。
「光かな?」なんてもんじゃなくて、顔の横の何センチぶんか明らかに犬かライオンだった。
こんなので、よく何も言われないな(言われてるけど)と思った。
えらい先生の前を横切る時はさっさっさーと足早に歩いているけど、内心どきどきしている。
地毛でもない、犬かライオンの毛の色の人が先生っていいの……?
そうして、私は自分がかなり保守的なんだなと知る。
革新的なこととか人と違ったことにあこがれて、そういうことをしたいのに、保守!
それで葛藤している。
髪を金色にするのは、やりたくてやっているのに悩んでいる。
変だ!
こそこそと隠れながらしたり、いいのかな? とか、まさかダメでしょ! と確信(!)しながら、みずから不安を作り、抱えながら生きているなんて絶対変だ。
居心地がいいとも言えない。
ある子が、「先生は金髪っていうより……明るい赤とか緑の方がいいと思う」と言ってきたけど、私もそう思う!(けど、赤はともかく、緑って……!)
でも、金色にしてみたかったのだ。
今しなければ、きっとずっとしない人生だ。
この人生ではまさか友達になれるとは思っていなかった人と、最近友達になり始めたように。
この人生でやらなかったら、「もう絶対やらない」ってことなんだから。
自分が金髪だ(一部)ということに慣れていなさもあるけど、完全に心地よくもなく、落ち着かないのに金髪だ。
完璧にかわいくて素敵だ、と自信をもって言えるわけでもない髪型で生きている。
なんでそんなことをしているのか、自分でも謎で不思議だ。
でも、自分でもよくわからないことをするのがいいのかもしれないという気はしている。
オランダかもな名古屋でちょこっと休憩。
「オンライン授業」が始まった。
欠席している生徒が希望すれば、自宅からスマホで授業を見られる、というやり方だ。
学校の教室で、出席している生徒に対してふつうに授業を行い、それをiPadで生中継するイメージ。
iPadの設定や接続、希望した生徒がちゃんとログインしてきたかどうかの確認、教室に三脚を立てて角度を調整したり、画面に黒板が映るようにすること、文字を見やすく、プライバシーに配慮しながら、……とかをすべて授業をしながら一人でしなければならず、それがしんどいのだった。
マルチタスクが過ぎるよ。
「オンライン授業」が始まる前の週、授業に行っているクラスの担任の先生と話した時、「(自分のクラスが)『オンライン授業』になりそうで、申し訳ない気持ちでしんどいです~。非常勤の先生達にも、いろんな負担をかけることになっちゃって……」と言っていた。
私も電子機器や「新しいこと」に自信がないし、先の想像ができない不安に心が沈みそうだったけど、一方で、「閉塞状態」にうんざりしていたこともあり、何か「新しいこと」が始まるのはいいような気がした。
先生を励ましたかったからというのもある。
それで、「『新しいこと』をするのはいいような気がします。なんか、光のような!」
と言ったら、「具体的な光が見えたんですか?」と聞かれて、「ないです!」と答えると、一緒に笑ってくれたからよかった。
きっと何かいいはずだ。
そして、本当にそのクラスで『オンライン授業』が始まった。
そのために、担任の先生と前日から動作の確認をしたり、流れを質問したり、一緒に考えたり愚痴を言ったりした。
結局のところ、他のクラスでも状況はみんな同じだから、みんな「初めて」、「オンライン授業」に挑戦し始めていた。
だから、職員室では、わからないことを教え合ったり、気軽に聞いたり、応援したり、気にかけたり、変だなと思うことを打ち明け合ったりした。
それは、とてもとてもよかった。
みんなが同じ事柄(問題)を抱えているから、一緒に悩んでいて、当事者で、協力し合っていて、味方で、励まし合っていて、心配して、すごくいいのだった。それで、初めて喋った人もいた。
こんなことは今まで経験したことがなかったし、でも、本当はできるし、したかったことなのだと思った。語弊があるかもしれないけど、これはまるでたぶん被災地で、避難所での生活のようなことなのではないかと勝手に想像した。
みんながそれぞれの「善性」を発揮して、自分と誰かのために、単純に行動している。信頼が見えやすく、シンプルで、わかりやすく、居心地がいい。
そういうことか、と思った。私たちはそういうことができるんだな。
とくに、ここにいるのは「先生」(になりたかった人たち)なのだから余計、「その人の好さ」が発揮されやすく、真面目で、単純なのだと思う。それがよかった。
そっかー、私はこういう人たちと一緒に働いているんだなと思った。
それはずいぶん気安く、気軽で、気を抜けることのような気がした。なんか、わかんないけど。
その始まりの日に私は金髪(一部ね)で行って、仲良しの同僚には短くした前髪をからかわれ、「先生ごきげんやね」と言われた。さらに、「人生楽しんでるね」と言われたこともとてもうれしかった。
それっていちばんうれしい言葉かも。
私はそうやって生きていけるのかも。
私の「オンライン授業」は全然うまくいかず、画面の向こうの生徒といつまでも接続できなくて、それでも授業を進行しなければならないから、一人で焦ったり気をもんだりして、授業中私が一番心ここにあらずだった。
その後ろめたさゆえか、私の目には生徒たちがみんなやけに真面目に授業を受けているようにも見えてきて、そのちぐはぐさが可笑しかった。
私も、ここにいる生徒も、欠席している生徒も、心配して様子を見に来た担任の先生も、みんな真面目だな。すてきな真面目さん達なんだな。
職員室に戻って結果を話して、担任の先生が欠席した子に電話をして原因がわかったりして、次回再挑戦だーきっと! と意気込んだりしておもしろい。
そういうことのすべてがコミュニケーションなのだと思う。
問題なく出席していた時にはとくに話さなかった相手と、きっかけを得て別の手段で交流するとか、新しいな。
「オンライン授業」によるスキルアップとか、対応力とか、そういうことじゃなくて、これは新しい交流の手段で機会だったんだな。
そうじゃないと、われわれはすぐに硬直するから。
交流しないまま、よどんでいくから。あきらめちゃって。
新しいことは最初は不安で怖いけど、みんなで一緒にやってみたらいいんだなというお話でした。
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