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イライラ期の過ごし方~暗闇バイト考察編~

気付いたらって言うには大袈裟だけど、私はその次の次に出発するバスに乗っていた。


アールグレイと電話によってずいぶん半々の方に戻されたけど、しゃべりながら調べたらバスが空いてそうだったから。


トリュフとアールグレイと化粧品と下着と本だけ持って家を出た。

本は、友達に借りている今村夏子の『こちらあみ子』にした。

たぶん、あみ子の変で社会に適応できなさに、昨日と今日の自分は近いだろうと読んだことがないのになぜかわかったから。


何も考えなかったから、メガネと新しいタイツとホルモンの薬を忘れたことに後から気付き少し動揺した。

バスの中でも考えていた。


自分はよくやったのだから称えて労らなければと思う一方で、孤独感と自分が損なわれたような気分に苛まれては、自分の純真さが極致であることに自爆する。いつまでも子供臭い自分に辟易するばかりだ。これまで何回も何回も経験してきた境地のはずなのに、その対処法も回復の仕方も全然わかっていない。


……でも書いていて気付いたのは、私は誰にも何も期待していないということだった。
誰かや会社(組織)のことを、憎んだり悪く思ったり絶望したりしていない。それはいいことなのかどうかはわからなかった。
けど、時が経った今の私を、少なくとも傷付けることはない。よかった。


採点が嫌で早く帰った日の夜、AdoちゃんのYouTubeを見て泣いたのだった。

自分の歌う姿(顔出しはしていない)を見て発狂するAdo様っていう動画。

おまえーきもいー何首傾けてんだオエーキライやだ!!
と錯乱している笑

『マツコ会議』でマツコと対談したとき、Adoちゃんが、「どうしたら自愛ってできますか?」とマツコに聞いていた。

内容もよかったけどAdoちゃんが話す声にすごく惹かれた。低くて地を這うような声。

それで、『心と言う名の不可解』を聴いたりした。

自分のことも受け入れられないと叫び歌う声に泣き、こういうところに自分を重ねるのだろうと若者のことを想像した。

嫌いなままでいい、それがあんたの歌の原点で人を魅了しているところなんだからというマツコの返事がちょうどよかった。

どうしようもない。叫ぶしかない。自分の無理さについては自分がいちばんわかっている! ということを見事に作品に仕上げていつでも手が届く場所に置いておいてくれるのは正直本当に助かるよ、と思った。



🚌

サービスエリアでトイレに行き、少し暑かったから中に着ていたタートルインナーを脱いだ。その時、右耳のイアリングが取れないように気をつけて、確認した。
けれども、母の家に着いたらイアリングは無かった。
泣きたかった。

マスクのせいで無くしたり落ちて壊れた数々のイヤリングの墓標を立てたい……というかくそマスク!このヤロウ!!

サービスエリアを過ぎてから、『こちらあみ子』を開いた。

すぐに、どんどんどんどん引きこまれて止まらなくなった。

あみ子を美しくも露悪的にも書いていないのがすごいと思った。

一般の子どもたちが身に付けていくことを要請される社会性に対して、あらがうことは許されず受け入れてしだいに染まっていくその過程の暴力的なこととか、最小限の言葉で書ききっていた。

そのことは、日々成長し、「いい子」と言われ受け入れていく近くの子どもを見ていて思うこととも容易に重なる。「いい子だね」「おりこうだね」「こっちの言うことがよくわかっているね」って、大人にとってと社会にとっての都合のよさじゃないかな。

でも、そうじゃないと「動物」って言われてしまい生きていけない。


あみ子の同級生たちにはその悲哀もたしかににじんでいる。どこに身を置いたらいいかわからずにおろおろしているように見える。だって子どもなのに。リトル大人になることをせまっていくのはとても残酷なことをしているのではないかという気がする。


普通じゃないあみ子と、普通を身に付けていった同級生の男の子とか兄とかとの衝突っていうか爆発みたいなクライマックスに大号泣した。

私は普通だけど、みんなが同じ動きをしないといけないことになっているあの場(採点の部屋)で普通にはできなかったしもうできないって自分のことがわかったからあみ子…って思った。

けど、普通側の人たちのあみ子に味わわされる苦しみもめちゃくちゃしっかり描かれていたから、やっぱりそっち側に自分を置いて泣いた。

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